また、門前町の町屋敷の区画が変動していることも注目される。たとえば、西町では、享保一一年(一七二六)に、表4-3-4-2の6・7の地借が裏地を返上している。また、町屋敷数自体も、表4-3-4-1にみるように、変動が激しい。とくに一〇年季の代地町の場合は、寛政元年(一七八九)に願い出て一三六坪五合の明地三か所を幕府に返し、安政六年(一八五九)の年季書替の出願時に、土地が手狭で地借が困っている事を理由に再び返地分の使用を願い出ている(「諸願記」*)。町屋敷が家持の資産となっている通常の町では、町屋敷の数が大きく増減することはないが、善福寺門前の場合、借り手の需要によって善福寺側が町屋敷の区画を調整していた可能性があるだろう。
こうした現象は、地借の交替が激しいことを思わせる。さきの「條目帳」では、地借の交代の度に署名・捺印が行われているが、西町では最初の署名・捺印者一八人に対して相続を除く五三人が、東町では八人に対して同じく三四人があらたに署名・捺印しており、文化一三年(一八一六)二月より慶応四年(明治元・一八六八)の五二年間で、一屋敷あたりの地借が西町で平均三人、東町で四・二五人となっている。この交替の要因として、地借が零細であったことが想定される。
すでに町屋の許可から八か月後、西町では享保九年(一七二四)五月に七人の地借(表4-3-4-2 9~15)が「困窮」のため地代(年貢)の値下げを願い出、一坪あたり二厘値下げをした一分六厘となっている。また、天明二年(一七八二)五月一八日には、門前町四か町の滞納者を名主玄関に呼び出し、二五日までに地代を納めるよう命じた。このとき呼び出された者の一人、東町久助は、地借となった安永七年(一七七八)八月より年末までの地代を支払った後、同八年正月から天明二年五月まで三年半分(閏月含む)の銀六九〇匁を滞納していた。久助は、再三の督促にもなかなか応じず、結局退去を命じられている(「東町久助地立申付候内済一件委細書」*〈「東町代地坪割」所収〉)。嘉永七年(一八五四)年五月には、元町八人、西町五人、東町七人、代地町二人の地借が連名で地代の延期願を出し、半金を同月の一四日、残りを七月一四日まで猶予を認められている(「連印帳」〈「代地町拾年季書替諸事扣」所収〉)。慶応元年一二月時点の滞納者は一三人で、最長は四年分、最高額は金一七両一分二朱、総額で金五一両一分・銭三四〇文の不納分があった(「御添地代不納之調」*〈「書上帳」所収〉)。このように、善福寺の門前町の経営は必ずしも順調ではなかったようである。