地借の結束と対立

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 こうした地借の地代滞納は滞納者の個別の問題ではあったが、嘉永七年五月に複数の地借が連名で延期願を出したように、同じ立場にあった地借の間で連携が見られる。また、安政五年(一八五八)四月には、善福寺は地代を滞納していた東町の峯次郎を再三にわたって呼び出したが、結局は五人組が峯次郎を説得するとし、認められている。五人組は連帯責任を負わされるとはいえ、土地の追い立てから滞納者を守ったとみることができよう。
 さらに、地借が結束して善福寺と対立する場合もあった。安政四年九月に実施された中興開基了海の五百五十年遠忌法会をみておきたい(「開基上人五百五拾回忌御法会要記」*)。
 この法事では、地借三人が裃を着用して来客に数珠・縁起を渡す役を、三人が寺に詰めて給仕などを務め、また家別に提灯を掲げた。四月に料理を振る舞われていたものの、とくに賃銭などは支払われておらず、無償の労働だったと考えられる。このほか、元町の地借・家守・店借(「元町家持中・家主中・店中」)が月番三名を通じて金五〇〇疋と肥後米一〇俵を、西町が開基堂前の手水を、東町の若者中が堅炭五〇俵、西町の若者中が土釜炭一〇〇俵、元町の若者中が賽銭箱を寄進している。元町に家守・店借が存在することから、地借の店貸経営や、各町における「若者組」の形成など、門前町の構成員が複雑化していることもうかがえる。
 このように地借は無償の労働や寄進を行ったが、同年の五月に月番が善福寺に呼び出されて命じられた開基堂の修復については、負担を拒否している。酒食の接待を受けた名主からも「善悪不論(ろんぜず)御普請引請呉(くれ)」と説得されたが、元町の地借たちはこれを断った。そして、代わりに金七両二分の上納を申し出たのである。月番からこれを聞いた善福寺側は、法事のための寄進金が不足していることから、さらに地代三年分の先納と、その代わりとして四年後から六年後については六年後に一括支払いすることを命じた。「町内」では緊急の寄り合いを開いたが、地代の先納は混乱を生じるとして決定には至らなかった。この結果に善福寺側は「立腹」し、結局地代の先納ではなく、払える者から集めて上納金として同額の一六両を納めることで落着した。このときの出費には家守二人も加わった。また、西町は金五両、東町は布紋幕を一対、代地町は金二〇〇疋を納めている。ただし、こうした修復の無償労働や地代先納を地借が受け入れなかったことから、地借の「町内」が領主である善福寺に強く抵抗したことがうかがえよう。
 一方で、五人組の組頭と組下の地借同志が対立することもあった。享保八年(一七二三)一〇月には、西町において、地借の五人組の組頭を、組下の地借が糾弾するという内紛が起き、出訴に及んでいる(「門前西町組頭組下出入裁許之趣奉窺(うかがいたてまつり)候」*〈「書上帳」所収〉)。組下の主張は、①組頭が番人の給銀を新規に店借まで含めて集め出したこと、②火事羽織が所在不明となっており、組頭の不正の可能性がある、③組頭と組下が不和なため、火の見櫓にかかわる町内の相談に組頭三人(彦右衛門・長兵衛・三左衛門)とほか地借二人が不参加だった、というものであった。寺で調査をすすめた結果、組頭の役儀をとりあげるほどの過失はなかったので、九月二二日に組頭三人を今まで通り命じ、組頭と組下の和熟を命じたが、組下の地借が納得せず、寺社奉行所に出訴した。その願書が寺に差し戻され、再び三人に組頭を命じ、組より月交代で加役を出す形としたい、という提案がなされている。結末は不明であるが、町入用の出費をめぐっての地借同志の対立といえよう。
 地借は善福寺と経済的な関係のみならず、無償の役負担や儀礼の参加など、いわば領民としての側面を持った。そして、地借は地代の滞納から零細な者が多かったと推測され。移動が激しかった。しかし、住民内部での対立も孕みつつ、住民が結束して善福寺と対立する事態も生まれていたのである。  (岩淵令治)