4-3 コラム 撮影された門前町の街並み

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 一二四~一二五頁の写真(図4-3-コラム-2)は、明治二年(一八六九)に来日したオーストリア=ハンガリー帝国の東アジア遠征隊に随行した写真家ヴィルヘルム・ブルガーと、その弟子ミヒャエル・モーザーが遺した「ガラス原板ネガ・コレクション」のなかの一枚である。このコレクションについては、平成二二年(二〇一〇)から東京大学史料編纂所「古写真研究プロジェクト」による撮影調査が実施された。八〇〇〇万画素という高精細のデジタルカメラでガラス原板ネガを撮影したことにより、そのデジタル画像を拡大すると細部まで鮮明によみがえる。本写真は、そのデジタル技術によって撮影地を特定できたものである。俯瞰で撮影したときには不鮮明であった箇所を、追加調査で接写・分割撮影したことにより、「第二大区小四区西久保広町」という町名札の文字を読み取ることができたのである(東京大学史料編纂所古写真研究プロジェクト編 二〇一八)。
 西久保広町(現在の虎ノ門三丁目、愛宕二丁目)は、明治二年に芝富山町・芝青松寺門前・芝青龍寺門前・同代地・芝光円寺門前・西久保同朋町・北新門前町、および天徳寺門前町のうち広小路門前町が合併して成立した、天徳寺の南に位置する町である(図4-3-コラム-1)。同町が「第二大区小四区」に編入されたのは明治四年一一月(一八七一年一二月)であり、翌年の「ザ・ファーイースト」紙(一八七二年一一月一日号)に本写真が掲載されていることから、撮影年代はこの約一年の間と考えられる。
 写真右下の、軒先に男女二人がたたずむ右側手前の平屋の建物は芝青龍寺の門前付近の茶屋で、「茶めし」の垂れ幕がみえる。写真左手前から奥へと進む道の右側が同じく芝青龍寺門前、左側が芝光円寺門前で、道の右手前の道標には「西 いゝくら(飯倉)・麻布道」「南 増上寺・芝□□□道」とある。この道を進めば神谷町に出る。
 この辺りは「切通(きりとおし)」「広小路」などと俗称され、江戸時代には屋台や出店が建ち並んでいたが、明治になるとそれらは撤去され空き地になっていた。また人力車も見られるなど、江戸時代からの変化が随所に読み取れるが、建物や街並みの様子は江戸以来の面影をとどめているとみてよいであろう。都市東京(旧江戸)を構成する地域ではあるが、町屋のすぐ裏には木々が生い茂り、瓦葺(かわらぶき)の屋根も左奥の一軒だけ(光円寺の門か)で、多くは板葺きの簡素な造りである。江戸の町人地といっても、江戸城を訪れる大名や外国使節が通行する大通りに面した日本橋地域(現在の東京都中央区)のような街並みと、港区域に見られるような寺院の狭間に点在する周辺地域の街並みとでは、様子は大きく異なっていたのである。  (髙山慶子)

図4-3-コラム-1 幕末期の西久保広町周辺図
「芝口南西久保愛宕下之図」(芝愛宕下絵図、部分)
国立国会図書館デジタルコレクションから転載 一部加筆

図4-3-コラム-2 芝切通(部分)
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