諸問屋名前帳

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 天保一二年(一八四一)から同一三年にかけて、幕府は株仲間の解散を命じ、組合・仲間の結成や問屋の呼称の使用を禁じた。営業の独占を排し自由な取引を奨励することで、物価騰貴の解消を企図したものであるが、市場はかえって混乱し、物価の高騰は解消されなかった。そのため、嘉永四年(一八五一)に株仲間・問屋・組合の再興が許可された。「諸問屋名前帳」は、このときに再興あるいは新規登録された江戸の問屋・仲買の名簿である。業種ごとに嘉永四年から同七年にかけて作成され、その後の構成員の変動も加筆されている。
『新修港区史』では「諸問屋名前帳」が分析され、江戸全体で八二の業種から、港区域に二軒以上存在した三〇種一八〇六軒の店舗が抽出された(軒数は延べ数であり、一つの商家が複数の業種を経営する場合もある)。分析の結果、港区域の町人地には多くの炭薪仲買と舂米屋(つきごめや)が存在し、前者は六八二軒、後者は三九一軒を数えた。炭薪仲買は煮炊きや暖を取るための炭や薪を供給する業者で、多くは小売りを兼ねた。舂米屋は玄米の精白と小売りを行った。いずれも日常生活に欠かせない店であり、港区域に限らず江戸全体でも多く存在した。
 一方、地廻り米穀問屋(関東・東北産の米を扱う米穀商)が五三軒、脇店八(わきだなはち)か所組米屋(しょくみこめや)(武家の売却米を扱う米穀商)が三八軒と、米穀商が多いことは港区域の特徴の一つと言える。東海道の最初の宿場である品川宿で消費される米の多くも、芝の米問屋を介して販売された(港区域の米穀商については、本節三項および本章五節二項参照)。また、両替屋は一二七軒に達したが、港区域の両替商は金と銀の両替を主とする本両替ではなく、いずれも金銀と銭を両替し、小資本で本両替に従属する銭両替(脇両替(わきりょうがえ))であった。そして、人宿(ひとやど)(奉公人の周旋業者)一三二軒、六組飛脚問屋(参勤交代の同伴人足(にんそく)の周旋業者)八二軒と、奉公人や人足を斡旋・仲介する業者が多いことは、東海道を擁し、参勤交代で江戸に出て来る大名の屋敷が集中する港区域ならではの特徴として特筆される。
 以上のとおり、『港区史』や『新修港区史』では、江戸全体の店舗・業者を総覧できる史料を基に、芝を中心に多様な商工業が展開した実態が明らかになった。そこで以下の各項では、これまでの俯瞰的・統計的な方法とは異なり、特定の商家や地域など、個別の事例を取り上げる。二項では、江戸最大の豪商である三井家が芝口一丁目に構えた芝口店に注目し、三項では、その芝口一丁目から高輪に至る東海道沿いの地域の生業を見ていく。四項では、引札(広告)や商標という印刷物を通して庶民が利用した店舗を分析し、五項では武士を主な顧客とする町場の実態を明らかにする。多様な史料に基づくこれらの分析を通して、港区域における商工業の特徴をより深く掘り下げて理解する。  (髙山慶子)