三井家は京都に仕入店、大坂に支店を置き、江戸には本店の他に向店・芝口店(しばぐちだな)などを設けている。このうち芝口店は、そもそも高利の長男高平の妻かねの実家で三井家連家(三井一族は男子家系の六家を「本家」とし、女子家系の五家を「連家」としている)に当たる小野田家にその由緒を求めることができる。すなわち、小野田家は蒲生氏郷が松坂を城下町として支配していた頃からの有力町人で、寛文元年(一六六一)頃に本町二丁目に呉服店松坂屋を開業している。ところがこの店は元禄期(一六八八~一七〇四)に経営不振に悩まされ、宝永元年(一七〇四)には三井家が経営を肩代わりするほど深刻な状況だったが、それでも好転することはなく、ついに同七年、三井家が店を吸収するかたちで再出発することとなった。ただし、これ以降も店名はそれまでの「松坂屋八助」をそのまま継承している。
この店は享保元年(一七一六)の年末に本町一丁目に移転するが、元文~宝暦期(一七三六~一七六四)において、三井家全体の経営が不振となるなかでも、特に深刻な業績悪化に悩まされていた。それは同じ呉服店の恵比須屋・亀屋・布袋屋が尾張町二丁目(現在の東京都中央区銀座)の大通り沿いに店を構え(図4-4-2-1)、江戸の南西部に当たる芝から西久保・赤坂にかけての地域に顧客を確立していることが大きな要因だった。ライバル店であるこれらの店では呉服物の出し入れを手早くし、客を待たさず、得意客には礼状を欠かさないなどの細やかな対応が評判を得ていたのである。そして店の規模については、延享四年(一七四七)段階で恵比須屋の奉公人が一七三人、亀屋が一三九人、布袋屋が九五人で、三井家側でもこれらの情報を絵図に記載していることから(「尾張町通絵図」公益財団法人三井文庫所蔵)、経営を揺るがす脅威として認識されていたことを物語っている。ことに恵比須屋は京都に本店を置く島田家が経営し、尾張町二丁目には間口一五間(約二七・三メートル)の店の他、間口一〇間(約一八・二メートル)と五間(約九・一メートル)の抱屋敷、間口三間(約五・五メートル)の綿店をもち、この時期三井家の販売を脅かす勢いがあった。
図4-4-2-1 尾張町の恵比須屋・亀屋・布袋屋
『江戸名所図会』早稲田大学図書館所蔵(部分)
当時販売競争力が低下していた三井家では、尾張町のこれらの店に対抗するため、宝暦期に本町一丁目の店を芝口にある三井家の所持地面に移転する案が出ていたのだが、なかなか実現に至らないままであった。そんな折、宝暦一四年(一七六四)二月、神田新銀町(しんしろがねちょう)(現在の東京都千代田区神田司町二丁目)からの出火で本町一丁目店が類焼したことをきっかけに、ようやく移転が本格化することとなった。こうして同年一一月、三井家は「松坂屋八助」名のまま芝口店を開店し、以後江戸南西部の販売拠点として位置付けるとともに、呉服屋仲間内での取引から見世先での現金売りに主軸を移していくこととなったのである。