食料供給地の本芝

138 ~ 138 / 378ページ
 芝口一丁目から東海道を南下して、古川(新堀川・赤羽川・金杉川ともいう)に架かる金杉橋を渡ると、東海道沿いには金杉通一~四丁目(現在の芝一~二丁目)、本芝一~四丁目(現在の芝四~五丁目)、芝田町一~九丁目(現在の芝五丁目、三田三丁目)が続く。明治四年八月二二日、本芝二・三・四丁目の地主惣代は次のように述べている。「私たちの町々は場末で辺鄙な海岸沿いの場所に位置するので、住民はいずれも商品の水揚げや運送の利便性を見込んで居住している。なかでも漁師、船乗り、魚問屋(「肴渡世」)が多く、上総・下総・安房および相模あたりで獲れる生魚を取り扱っている。周辺の町々も、仲買(「肴売」)、小売り(「棒手(ぼて)」)、荷物運搬人足(「軽子」)など、魚問屋に関係する生業の人々で住民の過半を占めている。」
 古川より北の地域は、元禄期(一六八八~一七〇四)にはすでに商業地として賑わっていたが(本節一項参照)、古川以南の本芝あたりは明治四年当時でも「場末」で「辺鄙」と認識されていたことが知られる。漁業関係者が多いとあるが、本芝とその北部に位置する金杉には、芝雑魚場(ざこば)と呼ばれる魚市場が存在した。
 同じ嘆願書では、本芝四丁目に多くの前栽(せんざい)問屋が存在したことにも言及されている。前栽は前栽物の略で、青物、野菜の意である。江戸の青物・水菓子(果物)問屋は、一番組の神田市場を筆頭に八組の番組に編成されたが、本芝の市場は南品川妙国寺門前(青物横丁)や青山久保町の市場、および周辺に散在する問屋とともに五番組に属した(吉田 二〇〇〇)。当地の問屋は江戸周辺の武蔵国葛西領(現在の東京都江戸川区)や神奈川領から船積みで運ばれる野菜を扱っており、仕入れた野菜は芝・三田・麻布の前栽売り(仲買・小売)に売りさばかれた。本芝は、魚市場と青物市場がともに立つ、食料供給地であったといえる。