芝雑魚場

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 芝雑魚場とは、入間(いりあい)川に架かる芝橋北詰めの芝金杉通四丁目と南詰めの本芝一丁目で隔月に開かれた魚市場である(図4-4-3-2)。一八世紀以降の江戸には、日本橋・新肴場(しんさかなば)(東京都中央区日本橋)・芝雑魚場・四日市(東京都中央区日本橋)という四か所の魚市場が存在したが(表4-4-3-3)、芝雑魚場は鮮魚のみを取り扱う市場である(吉田 二〇〇二)。
 

図4-4-3-2 芝雑魚場周辺図(上部が北)
「芝三田二本榎高輪辺絵図」(芝高輪辺絵図、部分)
国立国会図書館デジタルコレクションから転載

表4-4-3-3 江戸の魚市場
吉田伸之『成熟する江戸』(講談社、2002)をもとに作成


 
 芝雑魚場のほど近くには金杉浦と本芝浦が位置していた。図4-4-3-3は東海道沿いを海側から描いた絵図であるが、両浦のあたりは石垣による護岸が途切れ、砂浜が広がっている。金杉浜町(現在の芝一丁目・芝浦一丁目)は浜辺に面する町であるが、町の南に網干場があり、小魚が名産であることから「雑魚場」と称される場所があった(「町方書上」)。芝雑魚場という魚市場の呼称も、地元産の小魚に由来すると推察される。同町には漁船所持者が集住し(出口 二〇一一)、この辺りは漁業集落としての景観が見られたと考えられる(金杉浦と本芝浦の漁業については、本章六節二項および図説五章一五節、七章七節を参照されたい)。
 

図4-4-3-3 東海道沿いの石垣と砂浜
「浜御殿より品川新宿迄江戸往還道絵巻」明和3~8年(1766~1771)
東京都江戸東京博物館所蔵 ※浜の位置は図4-4-3-2を参照


 
 この両浦と、品川浦・大井浦・羽根田(羽田)浦・生麦浦・新宿浦・神奈川浦の八か浦は、江戸城で食される魚介類(「御膳御菜御肴」)を、一浦より毎月四度、八浦で一か月三二度、献上したが、江戸城での需要が増えて献上魚だけでは賄いきれなくなると、不足分を幕府が買い上げるようになった。そのために創設・整備されたのが、日本橋をはじめとする魚市場である。魚市場には八か浦だけではなく、武蔵、相模、伊豆、安房、上総、下総など、諸国で獲れた魚介類が持ち込まれた。幕府は魚市場を介して必要な魚介類を買い上げ、近隣の人々も諸魚を買うようになった(「町方書上」金杉組肴問屋)。
 元治元年(一八六四)一一月一日付けの本芝浦と金杉浦の漁師頭などによる書上には、慶長六年(一六〇一)、本芝村と金杉村に東海道が通されると両村は町となり、漁師たちは通りに市を立て漁獲物を売るようになったとある(「芝浦漁業起立」)。芝の魚市場は当初は地元の漁師が漁獲物を販売する場であったとみられ、「町方書上」にも、(売買を行う人たちは)当初は魚問屋と定められてはいなかったが、しだいに諸国の漁獲物を仕入れるようになり、魚問屋と定められたと記されている。
 日本橋魚市場も漁師たちが漁獲物を幕府に上納した残りを市中で販売するようになったことが起源であるが、取引が活発になり魚市場の整備が進むと、漁業に従事する漁師と漁獲物を集荷する問屋は分離した。金杉浦・本芝浦と同じく、深川猟師町(現在の東京都江東区清澄、佐賀・永代辺り)も江戸市中の漁業集落であるが、深川の漁獲物は日本橋方面に運ばれており、安政六年(一八五九)に下魚四〇種に限り地元での荷揚げや販売が許されるまで、深川に魚市場は存在しなかった(髙山 二〇一三)。魚市場・魚問屋と漁業集落・漁師が近接・並存する場所は、江戸では当地をおいてほかにはない。芝雑魚場は、地元の漁業集落と密接な関係があるという点で、江戸でも特徴的な魚市場であったといえる。