田町の米問屋

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 本芝の南には田町が続く。明治四年一〇月一〇日、田町三~九丁目の「海岸附(づき)地主、幷(ならびに)荷物運送之(の)者、漁師、船宿、小舟乗、日雇稼之(の)者共」は、「私たちは長年、海辺の町々で水辺の利便性を活かして商売を営んできた。船乗り達は海岸に船をつなぎ、荷物の揚げ降ろしに従事している。零細な商いを営む人や日雇い稼ぎの人も生計を立てることができる」と述べている。田町でも海辺であることを活かした生業が営まれたことが知られる。表4-4-3-4はこの嘆願書に名前を連ねた人を業種別に集計したものである。米問屋を筆頭に、雑穀、酒、塩、味噌、醤油などの食料や、炭薪を扱う商人、漁師、運送業者などが営業を行った。
 

表4-4-3-4 田町三~九丁目の生業 明治4年(1871)
「鉄道一件」をもとに作成 単位:人
※(不明)分は史料が切断され解読不能。


 
 当地に多く存在した米問屋について、港区域には田町五丁目(現在の三田三丁目)で地廻り米穀問屋と脇店八か所組米屋を営んだ内田家(屋号は山田屋)の古文書(「内田隆子氏旧蔵文書」* 港区立郷土歴史館所蔵)が現存する。このうち、安政四年(一八五七)閏五月、三河国西大平藩(一万石)の大岡越前守(忠愛(ただよし)もしくは忠敬(ただたか))の家中(藩士)が山田屋に宛てた証文は、嘉永六年(一八五三)に藩士の扶持米として購入した米の代金について、未払い金一二〇両の支払い方法を取り決めたものである(竹村 二〇一四)。大名の大岡家は、本来は自領の農民が上納した年貢米から支給する藩士の扶持米を、田町の米穀商から購入したのである。大岡家の上屋敷は外桜田(現在の東京都千代田区霞ケ関)にあり、山田屋と近接しているわけではない。田町の米穀商は近隣住民だけではなく、大名家も顧客としたことが知られる。
 なお、表4-4-3-4の「飼葉(かいば)渡世」の飼葉とは、牛馬の飼料とする藁(わら)・草・秣(まぐさ)である。田町九丁目の南隣には、牛車(うしぐるま)による荷物運送業者が集まる芝車町(通称「牛町」、現在の高輪二丁目)があり、飼葉は同町に供給されたと推定される(芝車町については、本章二節二項および図説五章一六節参照)。