表4-4-3-4 田町三~九丁目の生業 明治4年(1871)
「鉄道一件」をもとに作成 単位:人
※(不明)分は史料が切断され解読不能。
当地に多く存在した米問屋について、港区域には田町五丁目(現在の三田三丁目)で地廻り米穀問屋と脇店八か所組米屋を営んだ内田家(屋号は山田屋)の古文書(「内田隆子氏旧蔵文書」* 港区立郷土歴史館所蔵)が現存する。このうち、安政四年(一八五七)閏五月、三河国西大平藩(一万石)の大岡越前守(忠愛(ただよし)もしくは忠敬(ただたか))の家中(藩士)が山田屋に宛てた証文は、嘉永六年(一八五三)に藩士の扶持米として購入した米の代金について、未払い金一二〇両の支払い方法を取り決めたものである(竹村 二〇一四)。大名の大岡家は、本来は自領の農民が上納した年貢米から支給する藩士の扶持米を、田町の米穀商から購入したのである。大岡家の上屋敷は外桜田(現在の東京都千代田区霞ケ関)にあり、山田屋と近接しているわけではない。田町の米穀商は近隣住民だけではなく、大名家も顧客としたことが知られる。
なお、表4-4-3-4の「飼葉(かいば)渡世」の飼葉とは、牛馬の飼料とする藁(わら)・草・秣(まぐさ)である。田町九丁目の南隣には、牛車(うしぐるま)による荷物運送業者が集まる芝車町(通称「牛町」、現在の高輪二丁目)があり、飼葉は同町に供給されたと推定される(芝車町については、本章二節二項および図説五章一六節参照)。