図4-4-3-4 一立斎広重「東都名所高輪全図」
国立国会図書館デジタルコレクションから転載
これらの簡素な小屋や見世について、中・添年寄は「居宅の向かいに小屋・見世を出したり、近隣の裏店から通って来たり、小屋や見世に住み着いたりして、それぞれが生計の足しにしている。東海道の陸側(西側)は片側のみに町屋が並ぶ片側町で、その背後には武家の下屋敷や寺院などの山林が広がるため、町屋が孤立している。東京への入口にあたるので通行人は多いが、旅行者が多く、当地を通り過ぎてしまうので、陸側の町屋のみでは経営が成り立たない。そのため、東側の海沿いに手軽な見世を出し、この稼ぎで生計を維持している」と述べている。
「町方書上」によれば、享保一三年(一七二八)七月、高輪北町では長さ一八九間三尺(約三四五メートル)に奥行き三間(約五メートル)、高輪中町では一五六間一尺(約二八四メートル)に三間、高輪南町では一九六間(約三五七メートル)に三間の場所に、毎年三月一日から一〇月晦日まで、葭簀張りの水茶屋を出すことが許された。宝暦一〇年(一七六〇)一二月には常設の家作にしたいとの願いが出され、これ以降、高輪北・中・南町の三か町で毎年金一二両と永一〇文の冥加金(みょうがきん)(江戸時代の雑税の一つで、営業の許可や独占を得るため領主に納める献金)が代官役所に上納されるようになった。芝車町では、長さ二〇〇間(約三六四メートル)に幅三間ほどの場所に、古くから牛持(うしもち)たちが牛車を置いたり、商人たちが商売荷物を積み置いたり、高輪と同じく三~一〇月に葭簀張りの水茶屋を出したりしていた。文政七年(一八二四)以降、牛持たちの申し出により毎年金一二両の冥加金が町奉行所に上納されている。高輪の町々も車町も冥加金を納めており、水茶屋や小屋の設置は幕府公認であったことが知られる。
芝車町から海の向こう一三里(約五一キロメートル)ほど先は安房・上総であり、快晴の日には芝車町から安房・上総の山々が見えたという(「町方書上」)。車町や高輪では、旅人たちが海辺の茶屋に腰を下ろし、眼前に広がる海とその先に見える房総半島という風光明媚な景観を楽しんだ。
以上、芝口から高輪まで、東海道を北から南にたどってきた。いずれの町でも海、堀割、東海道と密接に関係する生業が営まれた点は共通するが、その業種は一様ではなく、それぞれの地域で特色ある多様な生業が展開された。 (髙山慶子)