第五項 武家地のなかの町場-久保町とその周辺

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 港区域の商業の特徴の一つとして、武家の需要に対応した商いがあげられる。ここでは、武家地がほとんどを占める愛宕下(二章三節参照)にあった随一の町場、俗称「久保町」(太左衛門町、備前町、久保町、善右衛門町、鍛冶町、伏見町、和泉町、兼房町、本郷六丁目代地 図4-4-5-1 一章一節四項も参照)とその周辺の町場をみてみよう。
 

図4-4-5-1 久保町とその周辺
「芝口南西久保愛宕下之図」(芝愛宕下絵図、部分)
国立国会図書館デジタルコレクションから転載 一部加筆


 
 図4-4-5-2(以下、図と表記)は、天保一四年(一八四三)三月に初めて勤番で江戸を訪れた臼杵藩士国枝外右馬が、家族に定期的に送った日記(「国枝外右馬江戸詰中日記」 岩淵編 二〇二一)の中で描いた図をもとに作成したものである。屋敷の裏門から「久保丁用事」と「入湯」の外出先、少し足を延ばして「愛宕下辺、幸橋、日影町当りまで」の範囲を描き、屋敷に出入する「町家・茶や等」も示したという。外出の折々に確認して作成していることから、この範囲が外右馬の生活圏といえよう
 

図4-4-5-2 国枝外右馬が作成した江戸屋敷近辺の図
岩淵令治「臼杵藩勤番武士の江戸における行動」『国立歴史民俗博物館研究報告』199(2015)から転載 一部加筆・変更


 外右馬によれば、「久保町」には大体の生活必需品について高級品から低級品まで揃っており、葵坂から新橋の北あたりや、外堀外の愛宕下地域の武士が買物に訪れた。そのため、町の北側を通る外堀沿いの通りは、並行する道より人通りも振売なども多かったという。勤務と外出制限のため、遠出が容易ではなかった勤番武士(二章一節四項参照)たちにとって、「久保町」は重要な場所だったのである。ちなみに、外右馬の場合、判読できる「日記」の四一四日のうち、外出日は一五四日(三七パーセント)、つまり一週間に二・三日で、うち、この図の範囲を中心とする上屋敷より二キロメートル以内(「近辺」)が一〇三日で外出の六七パーセントを占めていたのである。では、具体的に外右馬の「久保町」内の訪問先をみてみよう(岩淵 二〇一七)。
 (1)①仕立屋 萬屋利右衛門(太左衛門町) 「久保町」の中でも屋敷に隣接した太左衛門町の者で、「日記」には二三回登場する。紋付の晒や絽の羽織、下馬布や袴・単物の染め直し、帷子の洗張、「縮緬単物」の襟・袖口、頭巾・猿股、石帯・合切袋・股立取の紐の仕立など、染め直しや仕立ての依頼が確認できる。作業自体は多岐にわたるため、他の下請けに出していた可能性もあろう。また、「肌着」の「せんたく」と修理、濡れた袴や熨斗目のしわののばしなど、簡易な依頼もみられる。これは、おそらく裁縫や服の扱いに不慣れな者の単身生活に伴う注文であろう。万屋が被災した際には、「御屋敷より預り物」の裃・袴・上着などがすべて焼けた、と記されていることから、他の臼杵藩士との関係も深かったと思われる。
 (2)⑪両替屋 三文字屋(太左衛門町)万屋と同じ太左衛門町の両替屋で、本業は水油問屋・仲買で本店が伊勢にあった三文字屋又兵衛 (『両替地名録』〈嘉永七年[一八五四]〉版)である。外右馬は金を銭に両替する際に利用していた。こうした勤番武士の需要は、両替屋の経営にとっても重要であったと考えられる。
 (3)湯屋・髪結 「日記」には、屋敷の長屋で湯水を使って手足を洗う記事や、家来に髪を結ってもらう記述も見られるが、邸外への入湯や髪結の頻度も高かったと思われ、図の範囲については訪問した記載が省略されることも多かったと推測される。湯屋については、太左衛門町の②「利右衛門隣之湯屋」が七回、ほか「久保町」の湯屋としては⑤備前町の湯屋・「久保町」の湯屋(⑤と同一か)が各一回で、図の範囲内に湯屋として描かれたのはこの二か所である。太左衛門町の湯屋は初めての外出で立ち寄った場の一つであった。大勢で出かけたが、さびの臭いが強く、湯が熱すぎて、我慢して入っていたがあまり心地よくなかったと述べている。また、㉕日影町の湯屋が二回、㉖露月町薬湯が二回登場する。このほか、行き先の記載がない入湯の記事が二八回(うち二回は薬湯)確認されるが、おそらく図の範囲内の湯屋であろう。
 髪結については、図の範囲で⑧戸田屋隣の髪結(本郷代地「床」)が四回、ほか⑥「毛利様前」の髪結が一回確認でき、このほか場所の記載がないものが一〇回となっている。
 (4)食事 「増田屋を見候処売切(みそうろうところうりきれ)と札有之(これあり)、綿屋ニ行もつらく久保丁ニ入リ、武蔵やと申候得共(もうしそうらえども)十内(※荒巻重内 臼杵藩勘定方)嫌候故、蕎麦屋に寄り大坪(壺)酒抔(など)のみ帰る」とあるように、図の範囲には、日常的に立ち寄る飲食店があった。売り切れで店じまいとなっていた⑳増田屋は二葉町(本章二節二項参照)の店で、「増田ニ而(にて)酒・ちやわん物・さしみ・煮あげ・味噌吸物食事まて取り寄合、夕暮帰る」など、計六回登場する。仲間内で集まる安価な店だったと思われる。次に、同僚が嫌がった武蔵屋は計四回登場する。「武蔵屋ニ寄り壱朱斗リ食事を致し、おくめさんのお酌にてあかりを付候而(て)帰」とあり、やはり食事と飲酒をする比較的安価な店であった。この店では、居合わせた初対面の長州藩の青山下屋敷の藩士と酒を酌み交わしている。江戸南部の屋敷に住む武士たちの憩いの場だったのであろう。綿屋は図の芝口一丁目の「ワタヤ」と思われる。
 このほか、日記には、図の本郷代地の⑩左の「田舎チヤツケ」で「酒・鴨の吸物・たこ煮上ケを為出(ださせ)、十内へふれ(る)まい、六ツ時前(午後六時頃)帰る」、「まぐろを喰ひ」・「めしをくひ帰る」といった記事が確認できる。また⑱幸橋の広小路で長屋への土産に鮨を購入しているが、おそらく簡易な床店(とこみせ)での購入であろう。
 一方、入湯後に訪れる店を同僚と相談し、④武蔵屋をあげたところ、食事がまずいというので清水楼に出向いたという記事がある。これは、備前町の料亭④「清水楼善右衛門」(図4-4-5-3)であった。この際には、「口とりよりいつ参候も手ぎれひな事」と満足している。また、別の日には「楼ニ登り両人ニ而(て)拾六匁五分取られ申候、但し食事茂(も)有之、会席料理清水屋よりはまたよろし」と記している。ここで比較として出てくる清水屋も本郷代地の料亭⑩清水屋善兵衛であった(図4-4-5-3)。清水屋に五人連れで訪れた際には、天保改革の影響で芸者の音曲はなく残念だったが、料理は美味で、かなり酔って帰ったとしている。この清水屋には、広尾が原への逍遙の際に、弁当の「煮あげ肴」も注文していた。「日記」では両料亭は、計七回登場する。
 

図4-4-5-3 「久保町」の飲食店 (嘉永元年〈1848〉)
『江戸名物酒飯手引草』 国立国会図書館デジタルコレクションから転載
外右馬が訪れた時と名前が変わっているが、清水屋(右)と清水楼(左)が掲載されている


 
 (5)買物と娯楽 「久保町」で屋敷への土産の酒や、釜屋で鉄瓶花生といった日常的なものから、訪問先への手土産として鰹節を、同僚の娘への土産としてかんざしを購入し、⑬兼房町では夏袴を選んで購入している。
 また、図の範囲では、⑮烏森稲荷と⑦金毘羅を各二回参詣し、また芸能鑑賞としては、⑱幸橋広小路で「咄」などを聞き、㉑二葉町にも「咄聞」に出向いたが「刻限おそく」叶わなかったという記事が見られる。二葉町については、新発田藩溝口家屋敷裏門の向かいに「咄場」(寄席)が確認できる(図4-4-5-2)。
 このように、図の範囲には、さまざまなレベルの商品を扱う商店、床店や日常訪れる店から料亭、信仰・娯楽の場が存在していたのである。
 こうした「久保町」は、外右馬のみならず、臼杵藩にとっても重要な存在であった。屋敷に隣接する太左衛門町が火元となって久保町が焼けた天保一四年三月の火災では、久保町の類焼した家々に握り飯を配り、さらに久保町と「御屋敷隣の十三軒」(太左衛門町)に米一俵ずつ、屋敷の出入町人にはさらに一俵を添えて渡し、評判がよかったと「日記」には記されている。近接地域や隣接した町の出入町人との関係がうかがわれる。こうした関係は、八戸藩上屋敷で市兵衛町を「前町」、長州藩下屋敷で麻布龍土町を「前町」、紀州藩中屋敷で赤坂の町屋を「坂下」と呼ぶように(二章一節参照)、他藩でも同様であった。
 文久二年(一八六二)八月、幕府は参勤交代の緩和を命じ、各藩主の妻子も帰国の途についた。大名や幕府の土木工事を請負った芝田町に居住する平野屋弥十郎は、「江戸市民ハ、是迄諸侯(これまでしょこう)へ立入、用度を達し盛ん成りしも、俄(にわか)に其道を失ひ、且(かつ)また諸侯より其出入町人え下与(くだしあた)へられたる扶持米抔(など)も共に止められ、江戸の繁盛も寂寞と成りけり」と述べている(『平野弥十郎幕末・維新日記』)。ここでは主に大名屋敷の出入町人の凋落が記されているが、藩士たちを相手とした商職人にとっても、彼らの帰国による経済的なダメージは大きかったと考えられる。武家地の狭間にある町人地の商職人には、武家によって賑わいがもたらされていたのであった。  (岩淵令治)