4-4 コラム 熊本藩細川家の出入職人

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 港区立郷土歴史館に所蔵されている「宇田川家文書」(*)は、下高輪証誠寺(しょうじょうじ)門前(史料では「證誠寺」と表記、現在の高輪二丁目)の宇田川家に伝来した史料である。歴代の当主は「革屋」の屋号と「八郎兵衛」の通称を名乗り、仕立(したて)職を営んだ。年代のわかるものでは宝暦五年(一七五五)から大正三年(一九一四)まで、四六点の古文書と二点の版本(和書)のほか、木札一点を合わせた計四九点の史料が現存する(東京都港区教育委員会 一九九六)。
 下高輪証誠寺門前の北西には、道を挟んで隣接する場所に熊本藩細川家の下屋敷が存在した(図4-4-コラム-1、現在の高輪一丁目)。「宇田川家文書」には同門前のことを「御屋敷前町」と記すものもある。細川家がこの地に下屋敷を拝領したのは寛永二一年(正保元・一六四四)である(熊本大学文学部附属永青文庫研究センター編 二〇一一)。それ以前の下屋敷は芝の増上寺の南隣りにあったが、将軍家の霊廟への火災が懸念され、当地に替え地となった。移転後もしばらくは芝下屋敷と呼ばれたが、宝永三年(一七〇六)に白金下屋敷と改称された。細川家は江戸城に近い龍之口(たつのくち)(現在の東京都千代田区丸の内)に上屋敷を構えたが、その敷地が狭かったため下屋敷を主要な屋敷として使用した(二章一節参照)。移転当時の藩主細川光尚(みつなお)は、正保二年(一六四五)三月に芝(白金)屋敷に転居している。
 

図4-4-コラム-1 下高輪証誠寺門前周辺図(上部が北)
「芝三田二本榎高輪辺絵図」(芝高輪辺絵図、部分)国立国会図書館デジタルコレクションから転載


 文化七年(一八一〇)一一月に革屋八郎兵衛が細川家の役人たち(「奥御納戸(おなんど)御役人衆中様」)に宛てた文書には、寛文五年(一六六五)に八郎兵衛が細川家の「御出入(おでいり)」として「御召物(おめしもの)」を仕立てる御用を命じられたとある。寛永二一年に細川家が当地に下屋敷を拝領してから二一年後のことである。召物とは飲食物・衣服・履物などの敬称であるが、仕立てには裁縫をして衣服を作り上げる意があり、仕立屋といえば衣服の仕立てを業とする人あるいはその店を指すことから、革屋は細川家に衣服などを仕立てて納めていたと考えられる。別の文書(年代不明)には、「御先代様御式正(しきしよう)御具足(ぐそく)御手入之(の)節、鎧(よろい)御直垂其外(ひたたれそのほか)品々御用被仰付相勤申候(おおせつけられあいつとめもうしそうろう)」とあり、「御召物」には、具足(甲冑(かっちゅう))手入の儀式で必要な、鎧の下に着る直垂などの品々もあったとみられる。また、「本紅裏(もみうら)御夜具」すなわち紅色で無地に染めた絹製の寝具(布団・夜着の類)や、掻い巻き(綿入れの夜着)・掛け布団・敷き布団それぞれの大・中・小の仕様が記された書付も見られ、これらも「御召物」に含まれると考えられる。
 天保二年(一八三一)四月に二宮治郎右衛門なる人物が革屋八郎兵衛に宛てた文書には、「貴殿御弟子義三郎と申(もうす)仁(人)、是迄無滞(これまでとどこおりなく)細工向相勤来(あいつとめきた)り候之由(そうろうのよし)ニ付、今般我等申請(もうしうけ)、養子ニ仕(つかまつり)候」とある。八郎兵衛のもとに細工を担う弟子がいたことから、八郎兵衛は仕立ての技術を有する職人であったことを確認できる。
 図4-4-コラム-2(口絵2)の木札は明治三年(一八七〇)三月に発行された「御門出入札(ふだ)」である。その名のとおり、細川家の屋敷の門を出入する際には、提示を求められたものと思われる。「明治三午歳(うまどし)三月改(あらため)、来(きた)ル戌歳(いぬどし)二月限」とあり、この札の使用期限は戌年の明治七年(一八七四)二月までの四年間である。

図4-4-コラム-2 「御門出入札」* 明治3年3月改(口絵2)


 
 同様の出入札を文政五年(一八二二)五月に八郎兵衛が渡されたときの「御請書(うけしょ)」(口絵1)には、何事によらず無作法なことはしない、出入札を人に貸さない、といった約束事が記されているが、最も多くの文面が割かれているのは、家中の藩士たちへの「売掛貸金」についてである。売り掛けとは、あとで代金を受け取る約束で商品を売り渡すことである。「御請書」には「御家中江(へ)売掛貸金堅仕間鋪候(かたくつかまつるまじくそうろう)」とあり、藩士たちへの売り掛けや貸金は厳禁とされている。その上で、八郎兵衛から藩士への相対(あいたい)(当事者同士)の売り掛けや貸金に対して、その支払いや返済が滞ったとしても、内々のことなので相対で解決し、無理な言い掛かりをつけたり「公儀」に訴訟したりすることは決してしないと約束している。
「宇田川家文書」には、安政四年(一八五七)一一月に松本文五郎が仙台平(ひら)(仙台産の精巧で厚地の絹織物)の袴の代金として金一両一分を革屋八郎兵衛から借りたときの覚え書きがあり、禁じられている「売掛貸金」が実際に行われていたことを確認できる。「御請書」の誓約がなされた背景には、こうした売り掛けや貸金をめぐる問題が、宇田川家と細川家の家中(藩士)との間で生じていたであろうことが想定される。
 
革屋八郎兵衛は、細川家の「御召物」を仕立てるという公式の出入関係を結ぶだけではなく、藩士たちとの間で非公式に内々で、相対の金銭貸借を行っていたのである。
 明治三五年(一九〇二)四月二五日、革屋八郎兵衛は細川家の家令である津田静一に「御紋服着用願」を出した(図4-4-コラム-3)。当時の細川家は華族(侯爵)であり、家令とは華族の家務を管理する人である。養子として跡を継いだ八郎兵衛は、亡き養父が明治一八年(一八八五)に下賜された表桜紋(細川家の替紋)付きの羽織を相続して着用したいと願い出ており、同日に津田が許可している。江戸時代が終わり、明治四年(一八七一)の廃藩置県で藩がなくなってから三〇年以上が経過しても、両家の関係は続いていたのである(平田 二〇一四)。  (髙山慶子)
 

図4-4-コラム-3 「御紋服着用願」* 明治35年4月25日