第一項 港区域のなかの百姓地

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 港区域といえば、町人地、武家地、寺社地が展開する〝都市〟の姿を想起させるであろう。しかし、当時の絵図をみると、幕末期においても百姓地が存在していたことがわかる。図4-5-1-1と図4-5-1-2は、幕府の普請方が武家地管理のために江戸市中の土地の沿革を詳しく調査して作成した「御府内往還其外沿革図書」「御府内場末往還其外沿革図書」(東京都公文書館所蔵)という一連の史料の一つである。白金村の一部を描いたものであるが、両者の違いは一目瞭然であろう。ちなみに、同地域は現在の白金高輪駅西側で、東は新古川橋から西は港白金三郵便局、南は芝新宿王子線道路から北は首都高速目黒線までの範囲にあたり、住宅地・商業地として発展しており、かつて農地だった面影は感じられない。
 

図4-5-1-1 元禄9年(1696)の白金村(部分)
『御府内場末往還其外沿革図書 十六 上』東京都公文書館所蔵

図4-5-1-2 元禄13年(1700)の白金村(部分)
『御府内場末往還其外沿革図書 十六 上』東京都公文書館所蔵


 
 港区域は、大都市江戸の境界地域にあたり、江戸時代を通じて都市化していきつつ、町奉行支配の町方と代官や領主支配の百姓地とが混在していたのである。図4-5-1-1は元禄九年(一六九六)の状況を描いたもので、伊達宮内少輔屋敷(伊予吉田藩)と金森彦四郎の武家屋敷以外は百姓地が展開している。一方、図4-5-1-2は元禄一三年(一七〇〇)の同じ場所を描いたもので、麻布永坂町、麻布田島町などの町場、のちに町場となる新堀川沿いの明地、そして多くの武家屋敷が広がり、百姓地は西側にごく一部が残るのみとなっている。およそ四年の間に劇的に景観が変化したといえよう。
 つまり、一八世紀にはすでに大都市江戸の一部を構成した港区域であるが、江戸時代の初めには、金杉川(古川、新堀川)より北の芝、桜田、西久保、赤坂以外の地域は、百姓地が展開する農村地域であった。それが次第に、江戸の発展と軌を一にするように、多くの町場が創り出されて町方へ編入されたり、武家の需要を満たすために武家屋敷が進出してきたのである。
 その結果、百姓地は、南部の村のほかは、わずかに町場・武家地・寺社地の間に点在することとなった。このように百姓地から町場・武家地へと大きく姿を変貌させるのが港区域の特徴といえよう。
 江戸時代後期に編纂された地誌『新編武蔵風土記稿』によると、港区域の百姓地は次の通りである。
  麻布町在方分、桜田町在方分、龍土町在方分、今井町在方分、飯倉町在方分、芝金杉町在方分、
  本芝町在方分、一ツ木町在方分、上高輪町在方分、下高輪村、三田村、今里村、白金村、原宿村
 特に、下高輪から今里村や白金村にかけてはかなりの農地が広がり、三田村や麻布町では武家屋敷や町家の裏に畑地が残り、西方では原宿村の田畑が入り込んでいる。
 百姓地の住民数は、麻布町在方分一七軒、三田村一〇軒、白金村六八軒、今里村三七軒、下高輪村一二二軒、原宿村(その大部分は港区域外になる)一一〇軒となっている。町場が広く展開したといえども、多くの農民が存在し、百姓地としても機能していたことがわかる。  (工藤航平)