境界地域の実態-穀物取引をめぐる争論

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 江戸における穀物の流通機構は、諸問屋組合仲間(株仲間)制度により管理されていた。特に享保期以降、武家方払米を取扱う御用達商人・札差のほか、上方および東海諸国から船送された米穀を扱う下り米問屋、関東周辺および東北地方の米穀を扱う関東米穀三組問屋・地廻り米穀問屋が担い、その下に仲買や小売がいた。これらの問屋・仲買をとおした米穀が、小売商および精米・小売を兼ねる舂米屋に卸されたのである。
 特に、江戸市中と農村との境界地域では、米や小麦などの雑穀をめぐり、市中での販売独占を確保しようとする問屋と、市中での直接販売をねらう生産者との間で頻繁に争論へと発展していった。港区域と同様に場末に位置する淀橋など内藤新宿周辺(現在の東京都新宿区)では、武蔵野の代表的な産業へ成長していた水車を用いた精白・製粉業の進出をめぐり、江戸の雑穀問屋との間で対立が繰り返されていた(田無市編 一九九五、小平市編 二〇一二)。
 港区域には、上高輪、桜田、白金、下高輪、芝、伊皿子・二本榎などに地廻り米穀問屋が、上高輪、白金、下高輪、芝、桜田などに仲買と小売りとを兼ねた脇店八ケ所組米屋が比較的多くみられた。
 市外の生産者による直接販売や取引をめぐる問題は、境界に位置する港区域でもたびたび発生していたようである。たとえば、米価が高騰していた文政一二・一三年(一八二九・一八三〇)には、品川宿、大井村、目黒・渋谷辺の米商人たちによる「米穀在方より船積、岡附共、勝手次第直々引請」という行為に対し、芝金杉同朋町の地廻り米問屋行事代理が奉行所へ出訴している。この訴訟は、結局、在方米直買をしていた者たちのうち、品川歩行新宿と中渋谷村の者を一名ずつ米問屋組合に加入させ、残りの者には在方米直買を禁止することで落着した (品川区編 一九七一)。
 また、舂米屋は、港区域の全域に所在していたが、米穀の供給事情によっては、密かに周辺村々との直接取引を行う場合もあった。
 大道米舂や舂米屋とは、精白業者のことである。大道米舂は、臼杵をたずさえ行商人のように顧客を捜して移動したり、資力のある舂米屋の下請をする職人であった。一方、舂米屋は、店を構え、また時には大名・旗本の大口米も精米する者であり、資力・取扱量ともに大道米舂を上回っていた。
 
 天保三年(一八三二)一〇月から同四年二月にかけて、周辺地域の水車稼人から港区域の舂米屋へ送られた精米された白米について、禁止されていた在方米の江戸への無許可搬入との理由で、港区域の大道米舂が数回にわたり途中で押収するという事件が発生した。
 この一連の事件をめぐり、水車稼人と舂米屋は、押収された白米は在方米ではなくて、舂米屋より水車稼人に精白を依頼した米であると説明したが、大道米舂より町奉行所へ報告されてしまった。この訴訟の当事者は、次のとおりである。白米を押収した大道米舂は、麻布本村町弥七・儀八、赤坂新町五丁目喜兵衛、芝金杉同朋町小七、赤坂新町三丁目彦助、青山御掃除町清兵衛、赤坂田町一丁目弁七の七人で、すべて港区域内の居住者であった。一方、この七人に訴えられた者は、水車稼人と水車稼人に精米を依頼した舂米屋である。この両業者のうち、水車稼人は下渋谷村米吉・佐兵衛、上渋谷村忠左衛門、下大崎村重蔵・十蔵であり、港区域周辺農村の者たちであった。また、舂米屋は、麻布龍土六本木町清右衛門、三田一丁目七兵衛、赤坂裏伝馬町二丁目幸八、松村町与左衛門、麻布谷町代地定七、三田一丁目広右衛門、芝六軒町弥助であり、松村町与左衛門以外は港区域の町場居住者であった(*)。
 大道米舂の訴えた理由は、舂米屋は水車稼に精白を依頼していたが、両者は共謀してこの米に、在方白米を混入させて府内に持ち込んでいるというものであった。この問題の背景には、取扱量が増大した港区域の舂米屋が、早く大量精米可能な水車を所有する農民に精白を依頼するようになったことで、零細な大道米舂たちの仕事が減少しがちであったことがある(*)。
 事件は天保六年三月に示談となり、①水車稼人が一か年に二二両ずつ大道米舂仲間に差し出すこと、②市中の舂米屋より精白を依頼された米に目印をつけて在方白米と区別ができるようにすることが取り決められた(*)。