穀物取引でみられた町場の問屋と村々との対立は、蔬菜類でも同様であった。港区域の百姓地で生産された蔬菜類も、境界地域の市場や問屋などを通じて江戸市中へ供給されており、取引をめぐる争論が発生していたと考えられる。一例として、天保八年(一八三七)四月に青山久保町(現在の北青山二~三丁目)の市場をめぐる問屋と生産者である村々との争論についてみてみる(岩橋 二〇一八、神田市場協会神田市場史刊行会編 一九六八)。
青山久保町は代官支配の百姓町屋であったが、元文三年(一七三八)に町方支配に編入されている。矢倉沢街道(大山街道)沿いに位置しているため、多摩地域および荏原郡・豊島郡地域の村々が蔬菜類を持ち込み、享保期頃より市が立っていたという。寛政一一年(一七九九)、町奉行は青山久保町、麻布北日ケ窪町、麻布六本木町、高輪台町、渋谷道玄坂町、渋谷宮益坂、永峯町、品川台町の青物商人の業態調査を行い、問屋・仲買等の区別をつけた。この地域の問屋は九町一六軒で構成され、自らを「八ケ所仲間」と称していた。
天保八年四月、青山久保町の青物問屋と渋谷・目黒・世田谷近辺の村々との間で争論が生じたのである。周辺地域からの蔬菜類販売の活発化に伴い、問屋を通さずに、青山百人町通りや青山教学院門前で蔬菜類を販売する者が増加したことが要因であった。
はじめ問屋側が江戸町奉行所へ出訴し、のち村方側が不服として勘定奉行所へ出訴して審議された。結果、①問屋が梅窓院の境内地を借りて村方の立売りを許可する、②特に瓜・茄子・唐茄子の三品は、量り売り(「算売」)の間は問屋に持参して売り、値段が決定(「見積り売」)した後は立売りを許可する、③荷物一荷につき、銭一六文ずつの口銭(手数料)を問屋方へ支払う、というものであった。 (工藤航平)