江戸時代の鷹場とは、実際に将軍や大名など領主が鷹を放って狩猟する場所を指すものと、鷹場役人のもとで鷹場に関する統制と役負担を課せられている地域を指すものがある。鷹狩(放鷹)は、武士としての嗜みのほか、将軍や大名家による勧農や民情視察も兼ねた行事であった。
三代将軍徳川家光は、麻布、品川、目黒、高田(高田馬場)、千住、葛西、王子、隅田川などを中心に、江戸近辺で頻繁に鷹狩を行っている(『徳川実紀』)。四代将軍徳川家綱も同様に、隅田川を中心に、麻布、品川などへ出かけており、特に延宝元年(一六七三)以降の鷹狩は麻布と隅田川に限られたという(山崎 二〇一七)。港区域は、町場化する以前、将軍が鷹狩を行う場所となっていたのである。
鷹場制度のもとでは、鷹匠や鳥見をはじめ職制や、鷹場の設定による鷹狩環境の整備が進められた。元禄期に五代将軍徳川綱吉によって鷹狩が停止されたが、八代将軍徳川吉宗による復活ののち、さらに整備されて慶応三年(一八六七)まで続く。鷹場支配は、領地が入り組むことで生じる支配の脆弱性を補完する役割を果たし、支配が複雑に錯綜する江戸周辺地域について、幕府が直接的に支配をすることで地域秩序の再編をねらったものであったのである。
鷹場は禁猟区とされ、管理者の鳥見や代官には、密猟者・不審人物の身元調査・補縄の権限が与えられた。また、家屋の新築・改築の許可、農間余業調査などにあたり、鷹場を通して農民の生活の統制と広域的な治安維持を行っていた。
江戸周辺では、江戸から五里以内の鷹場が御拳場(将軍の鷹場)に指定され、葛西筋・岩淵筋・戸田筋・中野筋・目黒筋・品川筋という六つの「筋」に区分して管理された。特に、鷹場は江戸市中と周辺農村とに跨がって設定され、両地域を一体的に統制し、環境の整備や治安の維持を行ったのである。
鷹場の役負担は、基本的に「筋」内部の「領」の枠組みで鷹場組合を組織し、鷹場に指定された村々から徴収される。また、鷹場禁令等の布令を迅速かつ正確に伝達するためにも、組合組織は機能していた。
港区地域内の町並地および在方分は全て目黒筋(一一八か町村)の鷹場に属し、上目黒村御用屋敷の鳥見役所の管轄下におかれていた。文化年間に作成された「目黒筋御場絵図」(口絵5)によると、港区域は麻布領で、麻布町、桜田町、龍土町、今井町、谷町、市兵衛町、飯倉町、芝町、金杉町、三田町、白金台町、白金村、今里村、下高輪町、下高輪村、原宿村が加入しており、ここでも鷹場組合が町場と百姓地の区別なく一体的に組織されたことがわかる。また、天現寺(南麻布四丁目)は将軍が鷹狩りの際に食事をしたり休憩したりする「御膳所」に指定されていたことも看て取れる。実際に鷹狩を行うのは町場から離れた農地部や海沿いの葦原などであるが、鷹場支配は町場でも受けていたのである。