文政改革と改革組合

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 江戸時代後期になると、農村の変質が進み、博徒の横行や、一揆・打ちこわしが起こるなど、治安が乱れがちであった。一方で、関東八州は幕府領・大名領・旗本領・寺社領が複雑に入り組み、一村に複数の領主が存在する相給支配の村も多く、このことが統一的な治安取り締まりや施策の実行を困難とする大きな要因と考えられていた。
 そこで、文化二年(一八〇五)に幕府は、勘定奉行支配のもとで代官の手付・手代より関東取締出役を任命し、関東一円の治安維持と風俗統制を担当させた。また、水戸・川越・小田原藩領を除く関東全域において、関東取締出役を支えるため、数十か町村ごとに改革組合村を結成させ、組合村の組織をとおして治安維持を始めとする諸種の法令・取締の履行や、そのための諸経費の負担をさせた。
 港区域では、今里・白金・三田・下高輪の四か町村が大森寄場組合(三七か村)、一部が港区域にあたる原宿村は下北沢寄場組合(二六か村)に所属した。大森寄場組合内は数か村ごとに六つの小組合に分かれており、港区域の村々は今里組に属していたと考えられている(『大田区史』)。
 港区域は、町奉行・代官両支配地なども含まれていたために、改革組合への所属の仕方も単純ではなかった。慶応二年「当寄場組合一村限村高家数人別取調書上調」(『品川区史続資料編(一)』)で三田町を事例にみると、武家地・寺社地・町人抱屋敷および両支配地は改革組合村に含まれず、代官単独支配の百姓地分のみが対象となっていたのである。反対に、純粋な在方分があっても組合村に所属していない麻布町の例もあり、場末の境界であった港区域における改革組合への所属はかなり複雑なものであったともいえるのである。