三田用水は、下北沢村(現在の東京都世田谷区北沢・代沢)で玉川上水から取水し、代田村(現在の東京都世田谷区代田ほか)、中渋谷村・下渋谷村(以上、現在の東京都渋谷区桜丘町ほか)、上目黒村、中目黒村・下目黒村(以上、現在の東京都目黒区上目黒ほか)、白金村・今里村・三田村(以上、現在の白金・白金台ほか)、上大崎村・下大崎村・谷山村・北品川宿(以上、現在の東京都品川区上大崎ほか)の一三か村を流れる用水である。上目黒村のうち上知分を一村として、一四か村組合とする場合もある。また、代田村は、三田用水となってから一二か村組合より願い上げて組合への加入が許可されている。代田村加入の背景には、水元の下北沢村は他領のため、同村と入会である代田村を組合に取り込んでおけば便利であるとの考えがあったという。
前述のように少なからず農地を抱えていた港区域ほか、これらの村々は、もとは細川上水と三田上水(一章二節三項も参照)という二つの上水から取水して農業用水に利用していた。
細川上水は、万治年間(一六五八~一六六一)もしくは明暦年間(一六五五~一六五八)の開鑿(かいさく)といわれ、上・中・下目黒村、谷山村、上・下大崎村、北品川宿の七か村が利用した。細川上水とは、熊本藩細川家中屋敷(白金村・伊皿子台町あたり)への引水を目的として成立した上水路である。一方、三田上水は寛文二年(一六六二)の開鑿といわれ、中・下渋谷村、白金村、今里村、三田村の五か村が利用した。
享保七年(一七二二)一〇月に幕府が両上水の廃止を決定すると、細川上水は下北沢村水元で築留、三田上水は松平主殿頭下屋敷裏で築留とされた。特に、細川上水を利用した村のうち下流四か村(谷山村、上・下大崎村、北品川宿)への水路がなくなってしまったという。そこで、流末の四か村は上流村々との協議を経て、代官伊奈半左衛門役所へ流路再開を願い上げた。その結果、三田上水路を一三か村の用水として利用すること、下流四か村は三田上水末の今里村の森藩久留島家屋敷脇に堰を設けて分水路を設置することが許可されたのである。
『新編武蔵風土記稿』などでは享保九年(一七二四)の成立とするが、下渋谷村野崎組名主善右衛門が文化四年(一八〇七)に編纂した「四谷御上水分水 字三田用水由来一件留」(品川区立品川歴史館所蔵)では享保七年の成立と伝えている。以下、この善右衛門がまとめた編纂物をもとに、三田用水の実態を見てみる。
①水料米 用水の利用料となる水料米について、流域村々より請負人である玉川清右衛門・庄右衛門へは支払われていなかった。これは、三田上水・細川上水の敷設に伴って流域村々の地面が潰地(つぶれち)となったため、請負人と地主との相対で、地代の支払い方法と用水の利用方法が取り極められていたことによるという。組合側は、三田用水は「堀敷御年貢引ケ被仰付(おおせつけられ)候用水」のため、品川用水と同じく水料米を請負人へ差し出さないことになっていると主張している。品川用水とは、境村(現在の東京都武蔵野市)で玉川上水より分水し、南品川宿、北品川宿、大井村、戸越村(以上、現在の東京都品川区)など品川領九か村の農業用水として利用された。また、品川用水は利用する宿村が伝馬役を務めているために免除されているという請負人の主張に対し、三田用水組合村々も品川宿の定助郷・大助郷役を務めていると反論している。享保九年に管轄する道奉行の尋問に対する両者の主張であるが、道奉行も組合側の主張を認めたため、それ以降、水料米は支払われていない。
②分水路の管理 三田用水の管理については、上北沢村取水口から今里村の森藩久留嶋家屋敷地先までの本流は全組合村の管理、上・下大崎村、谷山村、北品川宿の四か村へ引き入れるために同屋敷手前の白金猿町で分水した分水路は四か村(下郷)のみで管理していた。これは、上郷村々の言い分では、下郷四ケ村の追願で分水路が許可されたことが理由という。ただ、下郷四ケ村のみで修復等を行うことは不可能であり、たびたび幕府へ御普請を願い上げている。
③圦樋(いりひ)等の規定 農業用水としての再開許可の直後より堀筋の長さ、延べ間数、埋樋、枡数の調査が行われ、翌年四月には取入口や分水口の寸法などを取り極め、組合村々より連印帳を提出した。
ただし、三田用水取入口にある元圦の寸法や埋樋間数は時期によって不定であり、上郷・下郷村々の間や、四谷大木戸の上水番彦七との間で争論が繰り返された。そして、元文五年(一七四〇)の元圦(もといり)修復の際の見分を機に、圦寸法は高二尺九寸・横三尺、埋樋は都合八間に一応は定まったという。また、その際、三田用水の樋口明け方は、これまで町年寄へ届け出るだけでよかったが、以降は町年寄への届け出は停止され、四谷大木戸の水番人彦七へ明け方・留め方とも届け出ることとなった。
④圦鎰(いりかぎ)の管理 上水圦の鍵は、上水奉行より伊奈半左衛門へ引き渡されたが、急場の際に役所にあっては不便であるため、組合の年番名主に預けることとなった。
しかし、明和七年(一七七〇)に普請方久松筑前守役所より、鍵は役所へ差し出すように指示があった。それに対し、一三か村組合は、伊奈半左衛門より組合へ渡されたこと、急御用の際に村にないと差し障りが生じること、役所へ差し出せというのであれば伊奈半左衛門役所へ訴えてその下知に従うと、あくまで鍵を渡さないという主張を示している。久松側は組合側の主張を受け入れ、これまでどおりとした。
下渋谷村野崎組名主善右衛門は記録のなかで、樋口寸法の再確認や鍵の引き渡し一件は、水番人の彦七が画策したものと推察している。それは、明和七年の一件において、樋口寸法と鍵の管理をめぐって組合側と彦七の見解が対立したが、組合側の主張が通ったことに起因していると考えている。そして、彦七側の理が通らないことを説明し、「右彦七若年にて我意強、錠鎰もわが願置の為彼是(かれこれ)申立候様相聞候」と批判している。
この彦七は、明和七年六月二七日に用水樋口の錠前を毀(こわ)して水留めするという暴挙に出ている。この一件は、代官伊奈半左衛門役所および普請方久松筑前守へ訴えられ、吟味の上、彦七へ咎めがあり、彦七親類などが詫び入れしたために内済している。
⑤組合内での争論 用水の利用や管理をめぐって、組合内で争論がたびたび発生している。用水路全体で水不足となっていても、下郷村々は上郷による不正が原因と考えてしまう場合も少なくない。
特に、明和七年の大旱魃(かんばつ)の際、旱魃等による用水不足に際し、下郷村々は分水口圦樋へ十分に水が来ていないと主張し、上郷村々でも圦樋に穴を開けて洩水を抜き取ったり、土手堤を堀割してしまうなど不正行為が行われた。
上郷の下渋谷村野崎組名主善右衛門は、自らがまとめた記録の中で、下郷村々に対して堀幅を狭めたり、平樋にするなど適宜対応すれば樋一杯に水が溜まること、また上郷村々に対しても不法を禁ずること、そのように組合村々が我が意を押し通すのではなく冷静に対応すれば、争論もなく「組合一統平和」であると強く指摘している。
安永三年(一七七四)三月にも、用水不足による上郷・下郷の争論が発生した。この時には「井筋不陸(ふろく)」もあり、熟談の上で堀床・分水口の水盛仕法を改めている。 (工藤航平)