考古学でみる町屋の形成と展開

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 神谷町町屋跡遺跡は北に向かって下る谷の落ち際に立地し、居住空間は斜面を造成してつくり出されている。
 この地は、慶長一九年(一六一四)、三河出身の中間・小人らが大縄(おおなわ)組屋敷として拝領した。その後、元禄九年(一六九六)になり大縄町屋敷と認定されると町場化が進む(本章三節二項参照)。発掘調査は、屋敷地南西隅付近の裏手に相応する空間を対象に行われ、一七世紀前葉から一九世紀に至る、都合四面の遺構検出面が確認された。
 本遺跡地を含め、周辺の初期造成は一七世紀前葉に始められたと考えられる。造成前は湿地や河畔林が広がり、水田が営まれていた可能性もある。また、初期造成時から地割や上水敷設などのインフラ整備が進められ、居住空間としての基盤が作られたことが発掘調査により判明している。その後、組屋敷としての土地利用の本格化とともに下水溝が作られ、敷地の分筆が始まったと考えられるが、この時期は建家が展開していたわけではなく、ごみ捨て場や厠が設置される空間であったと推測される。
 一七世紀末葉に町屋敷になった後、一八世紀中葉を過ぎる頃から建物が増し、一八世紀後葉には礎石をもつ建物(礎石建物)が数棟建てられていたとみられる。しかし、一八世紀の末頃になると礎石建物が減少する一方、建物の密度が高まっていく。おそらく、長屋のような礎石をもたない建物の数が増していったのであろう。土蔵が建てられたことも確認されている。建物の密度の高まりは空地の減少を意味するが、このことを裏付けるように、ごみ穴のような空地に掘られる土坑がこの時期にはみられなくなる(図4-6-1-1)。
 

図4-6-1-1 神谷町町屋跡遺跡の空間構成の変化
大成エンジニアリング『神谷町町屋跡遺跡発掘調査報告書』港区内近世都市江戸関連遺跡発掘調査報告71(森ビル、2018)から転載 一部改変


 
 神谷町町屋跡遺跡で見られた建物の種類・構造や密度の変化は、幕末に向かって増加傾向にあった本遺跡地の人口動態を反映していると考えられている(大成エンジニアリング編 二〇一八)。
 次に、芝田町五丁目町屋跡・丹波亀山藩松平家屋敷跡遺跡の様子を見てみよう(港区教育委員会・岡三リビック編 二〇〇五)。東海道を挟んで海手・山手の両側に形成された芝田町五丁目(本章四節三項参照)は、当初は代官支配地であったが、寛文二年(一六六二)に町奉行の差配を受けるようになると、その後は幕末に至るまで両支配のもとにあった。遺跡範囲は町屋の山手側のほぼ全域に当たり、一七世紀中葉から一九世紀中葉に至るまでの遺構群と遺物が発見されている。なかでも鋳造関連遺構・遺物の発見は、この遺跡発掘調査の最も大きな成果であった。この地では寛永一七年(一六四〇)、近江辻村(現在の滋賀県栗東(りっとう)市)の鋳物師田中家によって金屋が開かれている。
 さて、検出遺構はⅠ期(一七世紀中葉~一八世紀前葉)、Ⅱ期(一八世紀中葉)、Ⅲ期(一八世紀後葉~一九世紀前葉)、Ⅳ期(一九世紀中葉)に区分される。
 Ⅰ期(図4-6-1-2a)は田中家が鋳造業を始めた時期で、北端を除く調査地の全域で万遍(まんべん)なく遺構が検出されており、生活空間として成立していたことがわかる。東海道に近い調査地中央の南東端近くで構築物の基礎である礎石列と乳児の埋葬遺構が検出され、調査地南端の区画では炉をはじめとする鋳造関連遺構が奥まった空間に分布する。鋳造関連遺構を代表する炉跡はⅠ期からⅢ期を通じてほぼ同じ空間に構築されており、鋳造に関わる作業はこの辺りで営まれていた。
 

図4-6-1-2 芝田町五丁目町屋跡の遺構分布状況の変化
港区教育委員会・岡三リビック『芝田町五丁目町屋跡遺跡発掘調査報告書』港区内近世都市江戸関連遺跡発掘調査報告38(エスエフ三田開発特定目的会社、2005)から転載 一部改変


 
 本遺跡地が顕著に変わるのはⅢ期からⅣ期にかけてで、幕末に相当するⅣ期には鋳造関連遺構が見られなくなる。図4-6-1-2bはⅣ期の遺構分布状況を示したものであるが、作業場があったと考えられる調査地南の東西に延びる区画を見ていただきたい。南端の一一〇号遺構とあるのは両脇に排水溝をもつ道で、突き当りには井戸(九六号遺構)が掘られている。井戸の奥には多数の小穴が見られ、建物が存在した可能性がある。また道の北方には、樽基礎をもつ建物跡(一三一号遺構)がある。樽基礎とは低地に建物を建てる際に用いられた工法で、地中に据えた桶の中に土砂を突き固めながら詰め、その上に礎石を置いて柱を建てていくもので、主として土蔵に用いられたものである。この建物跡も、工法や形状から土蔵と見られる。その上方(北方)にも土蔵の基礎があり、その間に二棟の建物跡が確認されている。この辺りが、店の奥の空間に当たるものと推測される。