東海道沿いの鋳造業

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 遺跡の発掘調査から、大都市江戸の人々の暮らしを支えていた生業や産業の実態を知ることはなかなか難しい。下級武士の家で傘作りの内職が行われていた可能性が指摘された例(二章五節二項参照)や、玩具の製作用具と思われる遺物が出土した麻布龍土町町屋跡遺跡、港区外ではあるが、泥面子(どろめんこ)製作工房と考えられている東京都墨田区の江東橋二丁目遺跡(仲光 一九九八)などの事例は興味深い。この意味において、芝田町五丁目町屋跡・丹波亀山藩松平家屋敷跡遺跡で発見された鋳造関係の遺構と遺物は、江戸時代の町人の生業を考古学の面から知る上で貴重である。
 寛永一七年(一六四〇)、近江辻村(現在の滋賀県栗東市)から江戸に出てきた田中七右衛門知次が本遺跡地周辺に土地を借り、金屋を開いた。鍋釜で名を馳せた、後の釜七である。知次は明暦四年(万治元・一六五八)、江戸近郊の居木(いるき)橋(東京都品川区大崎)に金屋を移すまで、この地で操業を続けた。移転の理由は、この年の正月に芝田町五丁目で発生した火災の火元が田中家と疑われたことや、周辺に家が建て込んできたことにより作業に支障を来すようになったことと伝えられている(田中 一九九五)。知次によって開かれた芝田町の金屋は、その後、知次の親戚筋が引き継いだと考えられる。
 さて、発掘調査では、おびただしい量の鉄滓(てつさい)(スラグ)、三叉(さんさ)状土製品、土型、鉄鍋の把手などが、炉跡とともに発見された。炉跡は三か所で検出されている。いずれもほぼ円形を呈し、直径は九〇~九五センチメートルほど、壁面には粘土が貼られ、底には煙道とみられる横穴に通ずる小孔が開けられている。炉体の壁面や床面、小孔・横穴内は高温により被熱し、赤く焼けただれている。各々の炉は複数が重なっており、ほぼ同じ位置で造り替えながら使われていたことも明らかとなった。これらの炉は、明治初期の文献との照合により土型を焼造するためのものと判断され、この地では一七世紀中葉から一九世紀前葉まで鋳物作りに使う土型を焼いていたことが判明した。製品については明らかではないが、遺構や造成層から大量の鉄滓が出土しており、鍋釜類などを製作していた可能性がある。また、鉄滓に緑青が付着しているものが混じっていたことから、銅製品も作っていたと考えられる。裏で製作(鋳造)した製品を、東海道に面した表で販売していたことが、同家の子孫に伝えられた由緒書に綴られている(髙山 二〇〇七)。
 釜七の製品は、今日、神社の鉄製天水桶などにみることができる。