内湾漁業の痕跡

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 芝田町に金屋が開かれた背景には、後背地の崖と眼前に広がる海との強いつながりが考えられる。火を多用する鋳造業に水は欠かせないが、崖面からは豊富な湧水が得られたであろうし、また材料や製品の輸送に海は利用価値が高い(本章四節三項参照)。この辺りの海浜部は古くから芝浦と呼ばれてきたが、芝浦を目にした田中七右衛門知次は、江戸近郊で金屋を営む環境としては最適と思ったであろう。その芝浦を含む今日の東京湾内湾は、江戸の人々にとって新鮮な魚介類の供給源でもあった。
 本来芝浦は、汐留地区の北端辺りの沖合から品川沖付近までの広範囲の地域を指す。金杉浦(現在の芝大門二丁目、浜松町二丁目、芝一~二丁目)・本芝浦(現在の芝四~五丁目、芝浦一丁目)はその北半に位置し、少なくとも中世以降、漁民が集落を形成し漁業で生計を立てていた。芝浦の海は遠浅で、魚介類の棲息に適し、名物として、地域の名を冠した芝海老があるように豊富な漁業資源の提供場であった。「町方書上」に、冬季は貝類、鱣(うなぎ)、夏季は芝海老、鯒(こち)、鰈(かれい)、黒鯛、雑魚と、季節に応じた主たる漁獲物が記され、他に白魚(しらうお)、石持(いしもち)、鱵(さより)、鯔(いな)、烏賊(いか)、穴子(あなご)などが捕獲された。貝類では赤貝(あかがい)、蛤(はまぐり)などが採取され、カニ類も獲れた。漁具漁法は様々であったが、近隣の浦々との争いが絶えなかったことから文化一三年(一八一六)に漁具漁法三八職を定めた。三八職は浦や時期によって異同があり、明治二〇年(一八八七)の調査によれば、本芝浦・金杉浦では一二職が確認されている。ほかに、小職と呼ばれる漁具漁法が一七職あるうち、八職が本芝浦金杉浦で行われていたとある(東京都内湾漁業興亡史編集委員会編 一九七一)。本芝浦金杉浦の漁業は明治期にかけて盛んに行われたが、その後は埋め立てや水質汚染などの海洋環境の変化などにより相応の漁獲高が見込めなくなり衰微を続け、昭和三七年(一九六二)、漁業権放棄の年を迎えた。
 本芝浦金杉浦の漁業の衰退は町の姿も変えた。昭和四五年、本芝浦に残されていた掘割が埋め立てられ、一部は公園となった。この地が雑魚場(ざこば)とも呼ばれていたことから公園も雑魚場公園(現在の本芝公園)と呼ばれているが、この公園の北隣で内湾漁業の痕跡が遺跡として発見された。
 平成一五年(二〇〇三)、集合住宅建設計画が持ち上がり、遺跡の有無を確認するための試掘調査が行われた。約二二〇メートルの長さをもつ敷地の左右両端と中央に設定したトレンチを掘削したところ、厚い箇所で三メートルを超す貝層が発見された。さらに、南に隣接する寛永年間創建の鹿島神社境内でも同様の貝層が発見され、両地点の調査により、①貝層が一七世紀中葉から近代にかけて形成されたこと(ただし鹿島神社境内検出の貝層は一八世紀前半までか)、②二枚貝が圧倒的に多いこと(鹿島神社境内はバカガイの名で知られるアオヤギが主体)、③いずれの貝層も貝以外の動物遺体をほとんど含んでいないことが確認された。また、いずれの貝層からも、陶磁器等の日常雑器、瓦等の建築部材、炭化物が出土している。
 本芝浦地区の漁師が、一七世紀後半から断続的に捕貝業を行っていたこと、主たる対象の一つがアオヤギ(バカガイ)であったこと、その場で加工していた可能性が高いことが考古学的に明らかとなった(黒住ほか 二〇〇七・髙山 二〇〇五・髙山ほか 二〇〇七)。  (髙山 優)