第一項 芝神明宮境内と山崎女龍

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 芝神明エリアと浮世絵との関係は意外に古い。寛文二年(一六六二)刊の『江戸名所記』巻七に「諸人きそひあつまりて、まうで来る事市のごとし」とあるように、早くから多くの参詣客を集め、盛り場としての賑わいを見せていた芝神明宮の境内には、見世物や芝居などの興行や、各種の物売りが活動していたはずだが、初期浮世絵(錦絵誕生以前)の代表的な女流絵師として名高い山崎女龍(じょりゅう)にとって制作の場であったことは、これまでほとんど注目されていなかった。
 彼女に関しては断片的な記述が二つ見いだされるが、その一つは在世中のもので、享保一九年(一七三四)刊の菊岡沾涼(きくおかせんりょう)の随筆『本朝世事談綺(せじだんき)』に、「おりう絵」として出てくる。
  おりう絵 女画竜(じょがりゅう)は、六七歳のころより天性うき世絵に耽(ふけり)て習はずして得たり。手跡(しゅせき)また亜之(これにつぐ)。能筆也。始は東叡山の麓にあり。今増上寺門前に住す。現在也。頃年女画工の名手なり。
 これによれば、彼女は幼年から独学で浮世絵を習得したとあり、はじめ上野寛永寺の麓にいたが、享保一九年の時点では芝の増上寺の門前に住むという。寛永寺の麓といえば上野山下(現在の東京都台東区上野)という江戸有数の繁華街であった。
 二つ目は江戸末期、天保一五年(弘化元・一八四四)成立の『増補浮世絵類考』中の女龍に関する記述で、その中に「下谷長者町御旗同心山崎文右衛門娘なり。芝神明の境内へ出て絵を書り」とある。
 享保頃は浅草寺の参道で懐月堂安度(かいげつどうあんど)らの浮世絵師が、参詣客を目当てに肉筆美人画の即描き即売を行っていたことが、同地を描く複数の風俗画中の描写から導き出せる。彼らの作品はおしなべて、紙本に質の良くない絵の具を用い、速筆のパタ-ン化した姿態という量産を思わせるもので、同様の画風を見せる他派の絵師にもそうした活動を行っていた者が多数いたことが推測される。そして、同じ頃にやはり同様の作風で活動していた女龍もまた、最初は上野山下で、後にやはり盛り場である芝神明宮境内において、肉筆の美人画を描いて参詣客らに売りさばいていたのである。現存する女龍画の落款には「山崎氏女龍十四歳筆」のように年齢が書き添えられているものが多く(図5-1-1-1)、それは一二歳から一四歳にわたる。
 参詣客で賑(にぎ)わう芝神明宮の境内において、まず年若い女絵師であるということで人目を惹(ひ)き、さらに絵の腕前のみならず、書にも秀でていたということが、即描き即売を旨とする彼女の活動の大きな武器となっていたのである。  (大久保純一)
 

図5-1-1-1 山崎女龍「二美人駒牽図」
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