第二項 歌川派の「聖地」、芝神明前

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 江戸後期から幕末の浮世絵でもっとも主要な流派となる歌川派は、このエリアとの因縁浅からぬものがある。まず挙げるべきは、歌川派の開祖である歌川豊春(一七三五~一八一四)の存在である。豊春は流派の祖というだけでなく、明和年間に透視図法的視覚を用いて空間の奥行き豊かな名所絵である「浮絵(うきえ)」の改良に寄与して浮世絵風景画確立の基礎を築き、また安永以後は肉筆美人画に専念し、大名家にもその作品の享受者を見るほどの声価を得た絵師である。
 豊春の出生地に関しては、豊後臼杵(うすき)(現在の大分県臼杵市)、但馬豊岡(現在の兵庫県豊岡市)、江戸の三説があって、いまだ確定しないが、近年では臼杵説が有力視されつつあり、故国を出て京都で狩野派の鶴沢探鯨(つるさわたんげい)に学び、その後、江戸に出て歌麿の師でもある鳥山石燕(せきえん)に入門したとする仮説が出されている。『増補浮世絵類考』には、「俗称 庄三郎 但馬屋と云 居 始芝三島町又日本橋に住す」とあり、江戸では最初に芝の三島町(現在の芝大門一丁目)に居を構えたらしい。彼の画号の「豊」は師石燕の名の「豊房」に由来し、画姓の「歌川」は江戸で最初の居所の三島町が宇田川町(現在の東新橋二丁目、新橋六丁目、浜松町一丁目、芝大門一丁目)に隣接しており、浮世絵の主要流派である「菱川」「宮川」「勝川」などの「川」を含む画姓に倣って、「歌川」を称したと推定されている。
 豊春の経歴に関しては、豊後臼杵藩の下級藩士で、藩の御用絵師の家に生まれたものの、咎(とが)めを受けて明和元年(一七六四)に「江戸欠落」(菩提寺過去帳)した土師(はじ)権十郎と同一人と見る説もある。臼杵藩稲葉家五万石の上屋敷(四章四節五項参照)は三島町から指呼の間に位置している。藩を追われた人物がわざわざ江戸屋敷近くに居住するというのも理解に苦しむが、不慣れな土地で旧主家の人脈に期待するところがあったのかもしれない。
 豊春はその後、江戸市中で居所をいくどか移しているが(港区域内という意味では赤坂田町〈現在の赤坂一~三丁目〉にも住した)、歌川派の第二世代で、この流派の隆盛に大きな功績があった豊国と豊広の二人もまた、芝神明前と関わりの強い絵師である。
 歌川豊国(一七六九~一八二五)は、錦絵では役者絵や美人画を多作し、膨大な点数の黄表紙や合巻(ごうかん)など、庶民向けの読み物である草双紙の挿絵を手がけ、山東京伝や曲亭馬琴らの読本の挿絵も描くなど、人気絵師として健筆を揮(ふる)うとともに、多数の門人を養成して、江戸末期における歌川派の隆盛をもたらした絵師である。
『増補浮世絵類考』に「江戸芝三島町の産なり 人形師を業とする人の男」とあるように、豊国は芝三島町の木彫人形師倉橋五郎兵衛の子に生まれた。豊国が挿絵を担当した京伝作の合巻『朝茶湯一寸口切(あさちゃのゆちょっとくちきり)』の序文に、「歌川豊国の亡父倉橋五郎兵衛は人形をつくることを業とし戯子(やくしゃ)の似顔の人形をつくるに妙を得たり」とあるように、父の五郎兵衛は歌舞伎役者の似顔を象った人形を得意としたらしいが、この五郎兵衛もまた臼杵の生まれであるとする説もあり、だとすると同郷のよしみで息子を豊春に入門させたということも考えられる。豊国没後の文政一一年(一八二八)に弟子たちが柳島(現在の東京都墨田区から江東区の一部)妙見堂境内に建てた筆塚に刻まれた狂歌堂四方真顔(きょうかどうよものまがお)による撰文(大破して断片のみ残るが、文面は拓本で伝わる)には、「一陽斎歌川豊国本姓は倉橋、父を五郎兵衛と云えり。宝暦の頃芝神明宮の辺に住し、木偶彫刻の技業を以て自ら一家をなせり。(中略)明和の初こゝに豊国を生り。幼名を熊吉と称す。性、画を嗜むが故に、歌川豊春に就きて浮世絵を学ばしむ」とあり、豊春が江戸に出て三島町(現在の芝大門一丁目)に居を構えた時点で五郎兵衛も同町内に居住していたことになり、その地縁から子を豊春に入門させた可能性も考えられよう。
 豊国と芝神明前との関係は、単に生誕の地であることや、この地に住んだ豊春に学んだということだけでなく、浮世絵師としての浮揚期の活動でも密接なものがある。天明末頃から絵師としての活動を始める豊国だが、寛政期に入って急速に絵師としての地歩を固めていく。特に寛政六~七年(一七九四~一七九五)にかけて断続的に発表され、出世作となった錦絵揃物(そろいもの)「役者舞台之姿絵」(図5-1-2-1)や同時期の美人画の傑作「風流七小町略(やつし)姿絵」など、寛政期の錦絵の秀作に和泉屋市兵衛(泉市)から出版されたものが多い。芝神明前を代表するこの版元については、後の項でやや詳しく触れることにしたいが、錦絵とならび浮世絵師の主要な活躍舞台である版本挿絵の分野でも、黄表紙の挿絵において寛政三年以後、和泉屋市兵衛版からの作が目立って増えている。浮世絵師豊国の絵師としての成長は、かなりの部分、この版元との仕事でもたらされたといっても過言ではない。黄表紙に関して付言すれば、豊国が挿絵を描いた寛政期前半の黄表紙の作者には、後述する桜川慈悲成(じひなり)(一七六二~未詳)や、芝全交(ぜんこう)(一七五〇~一七九三 芝西久保神谷町に住む)といった芝界隈に住む戯作者が多く、彼らが地縁的な関係でまだ駆け出しの浮世絵師を積極的に支援したことも指摘されている。

図5-1-2-1 歌川豊国「役者舞台之姿絵 かうらいや」


 
 豊国は、三島町の生家を出て、芳町(よしちょう)(現在の東京都中央区日本橋人形町)、堀江町(現在の東京都中央区日本橋小舟町、日本橋小網町)と転居し、文化五年(一八〇八)頃までに上槙町(現在の東京都中央区八重洲、日本橋)に移って、その地で終焉を迎えたが、死去の後、三田聖坂(三田四丁目)の功運寺に葬られた(現在、寺は中野区に移転)。
 芝神明前エリアとの結びつきの強さで言えば、兄弟弟子の豊広(不詳~一八二九)には豊国を上回るものがあるかもしれない。豊広は寛政(一七八九~一八〇一)後期頃から肉筆画や錦絵の美人画の作例が増えてくるが、享和(一八〇一~一八〇四)から文化(一八〇四~一八一八)中期にかけては、黄表紙・合巻、読本などの挿絵を数多く手がけ、この時期の挿絵画家としてトップクラスの活躍を見せている。文化一〇年(一八一三)の戯作者と浮世絵師の見立番付では、中央の行司に当たるところに曲亭馬琴や葛飾北斎とともに並記されている。今日では一般に知名度のけっして高くない浮世絵師であるが、在世時にはもっとも高い格付けを得ていたことがうかがえる。
 この豊広の居所に関しては、『諸家人名江戸方角分』や『増補浮世絵類考』など、芝片門前町(現在の芝大門二丁目、芝公園二丁目)で諸文献が一致し、他の居所を示す文献は見出だされず、また、馬琴の日記の文政一二年一二月二一日の条に「夕方、芝片門前画工歌川豊広家内より、使を以、豊広事、昨夜病死いたし候に付」との一文があることから、生涯をこの地で過ごしたことは間違いない。確認される初作の時期から考えて、豊国とも年齢がそう離れていなかったことが推測され、豊春に入門する契機もやはり地域的なつながりを考えるべきなのであろう(片門前町と三島町は歩いて数分の距離である)。
 豊広の画歴の中で注目すべきものに、戯作者で咄家(はなしか)でもあった桜川慈悲成との結びつきが挙げられる。慈悲成は戯作者としては黄表紙の作が多く、咄家としての活動では江戸小咄の話芸化に功績があって落語中興の祖とも称されている。この慈悲成の居所は『諸家人名江戸方角分』によれば芝の宇田川町とあり、三島町や片門前町同様、芝神明前エリアであった。
 前述したように、慈悲成は自作の黄表紙の挿絵に豊国も多用しているが、豊広に関しては慈悲成の咄本(はなしぼん)とのつながりが顕著である。慈悲成が寛政末期に編んだ咄本四冊の入集者が芝、品川、麻布、青山という近隣のエリアに偏っていることから、地域的なつながりの強い咄の会が催されていたことが指摘されている。豊広もそれらすべてに入集していること、また、他にも慈悲成編の咄本の挿絵を数多く手がけており、慈悲成を中心とした芝周辺の文化人グル-プの後押しで画壇での地位を向上させていったものと考えられる。
 慈悲成以外の戯作者と豊広の関係を見たとき、南仙笑楚満人(なんせんしょうそまひと)(一七四九~一八〇七)の存在も欠かすことはできない。楚満人は敵討ち物の黄表紙や合巻で人気のあった流行作者だが、その活動の盛期である享和から死没する文化四年にかけての黄表紙・合巻の挿絵の実に七割を豊広が描いている。この時期の敵討ち物の草双紙は、楚満人と豊広コンビで成り立っていたといっても過言ではない。その楚満人は、本業に関しては医師、書肆(しょし)(書籍商と出板業の二つの意味をもち、いわゆる「書店」とは異なる)、板木師と諸説あるが、住居は芝神明前(宇田川町と伝えられる)であった。
 また、寛政後期から末期にかけての豊広の錦絵の版元を見ると、高須惣七が際立った割合を占めているが、この版元は芝神明前にあった。
 前述の馬琴日記にあるように、豊広は文政一二年(一八二九)に片門前町の自宅で世を去り、虎ノ門の専光寺(虎ノ門三丁目)に葬られた。そこは片門前町からわずかの距離である。豊広は生涯、芝の人であったということができるだろう。  (大久保純一)