第三項 絵草紙屋の町、芝神明前

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 前項で、豊広の錦絵を数多く出版した版元が、芝神明前の高須惣七であることを述べた。兄弟弟子の豊国の出世作となった揃物「役者舞台之姿絵」や、美人画揃物「風流七小町略(やつし)姿絵」など、今日彼の代表作とされる寛政中期の傑作の多くを出版した版元和泉屋市兵衛も三島町、すなわち芝神明前の地本問屋であった。
 大伝馬町(現在の東京都中央区日本橋本町、日本橋大伝馬町、日本橋小伝馬町)の鶴屋喜右衛門、馬喰町(現在の東京都中央区日本橋馬喰町)の西村屋与八、通油(とおりあぶら)町(現在の東京都中央区日本橋大伝馬町)の蔦屋(つたや)重三郎というように、大店(おおだな)と呼ばれるような有力な地本問屋は江戸の経済の中心地である日本橋と両国橋の間の比較的狭い範囲に分布していた。馬喰町界隈に地本問屋が多くあったことは、この町に旅人宿が密集していたこととも無関係ではないだろう。彼らが帰国する際に、「江戸の名産にして他邦に比類なし」(『江戸名所図会(えどめいしょずえ)』)とされた錦絵が土産とされることも多かったからである。
 実は、密度でいえば、この日本橋界隈以上に地本問屋が集中的に存在する町として知られていたのが芝神明前である。尾張藩士高力猿猴庵(こうりきえんこうあん)の絵入り随筆『江戸循覧記(えどじゅんらんき)』には、「芝 三島町」と題して、絵双紙屋の店頭における店番の女たちと客の姿が描きだされているが、図中で絵双紙屋街としてのこの町の特色を叙述した文は有名である(口絵6)。
  此町は芝神明の辺にして繁昌の地なり。両がわの家毎に江戸絵草双紙を商ふ。此店には艶(えん)なる娘を出して男は出ず。これ端出(はで)にする為ばかりにあらず。もとめに来る人々には諸国の入込地(いりこみち)なるがゆへに、強気(ごうぎ)にかれこれとりきみ口論などする輩(ともがら)もあり。されば女とはからかいなどすれば世の笑艸(わらいぐさ)と思ひて、おのづから過言を言はず。とかく店に事なき様にする由なり。江戸広しといへど此ごとく見事なるさまは、不忍の池の端なる中町と当所のみにして、他にはなし。絵本紅画而已(べにえのみ)ならず、小間物或はもちあそび、ほしひものだらけなれば、三島町へ子供をつれては一足も動けぬと里諺(ことわざ)さへ言へり。実尤(まこともっとも)ぞかし(句読点は筆者による)。
 通りの両側に色とりどりの錦絵や草双紙を商う絵双紙屋が軒を連ね、美しい女が店番に出て華やかさを添えている。ここは諸国から人々が集まる場所なので、けんかなどにならぬよう美しい女性を店番に置いている。江戸で他にこのように絵双紙屋が密集する場所としては上野の池之端だけだともある。なお、三島町では錦絵などだけではなく、小間物や翫弄(がんろう)品も売っており、子供を連れて行っては買ってくれとせがまれて動けなくなるとも書いている(絵双紙屋は錦絵や草双紙といった出版物以外の商品も扱うことも多かった)。江戸に出てきた尾張藩士の目をひきつけるほど、この地の絵双紙屋の存在は際立っていたのである(大久保 二〇一三)。
 
 試みに文政七年(一八二四)の『江戸買物独(ひとり)案内』に出てくる芝神明前の絵双紙問屋を挙げてみれば、三島町角の佐野屋喜兵衛、三島町の若狭屋与市、同じく和泉屋市兵衛、宇田川町の若松屋与四郎の四軒が掲載されている。無論、これに漏れた店もあり、また小売り専業の絵双紙屋は記載されていないので、それらを含めると相当な軒数になったはずである。
 では、このエリアになぜこれほど多くの絵双紙屋が集まっていたのだろうか。それは『江戸循覧記』にもあるように、「諸国の入込地」であったからだろう。芝神明前という場所を絵図の上で確認すると、東海道から通りを一本西に入ったところに位置する。参勤交代や一般の旅人などが江戸を離れる際の土産として、錦絵を購入するのに適した場所であるとも想像される。実際、文政六年(一八二三)、陸奥国石巻の大瓜村(現在の宮城県石巻市)の阿部林之丞の伊勢詣での旅日記「伊勢参宮旅日記」で諸国名産を列挙した箇所に、「一、錦画は 江戸神明前」とあるように、地方から出府してきた者が帰郷前に、錦絵などを土産としてまとめて調えるために足を運ぶことも多かったのである。
 ただ、この神明前に集まる客である「諸国」の人々には、きわめて特徴的な傾向も認められた。
 それは、諸藩の武士が客層に多かったことである。『東海道名所図会』巻之六には、この地の絵双紙屋の店頭風景が描かれている(図5-1-3-1)。挿絵は和泉屋市兵衛とそれに隣接するおそらく小売り専業の升屋の店頭が描かれているが、これらの店を訪れている客や通りを行き来している人々を子細に見ると、そのほとんどが武士とその従者、もしくは武家の女性たちであることがわかる(画面右端の路上を歩む僧侶と小坊主は、おそらく増上寺の関係者であろう)。
 同様の傾向は前述の『江戸循覧記』にも見出だすことができ、天保六年(一八三五)刊の『江戸名所図会』巻之一の挿絵「錦絵」に描かれた大伝馬町の鶴屋喜右衛門の店頭風景や、幕末の代表的な地本問屋である下谷新黒門町(現在の東京都台東区上野)の魚屋栄吉の店舗をとらえた安政四年(一八五七)の「今様見立士農工商 商人」で訪れる客が武家の女と町人をある程度バランスよく描いているのとは異なっている。

図5-1-3-1 和泉屋市兵衛店頭
『東海道名所図会』六 国立国会図書館デジタルコレクションから転載


 
 寛政二年(一七九〇)刊の七珍万宝(しっちんまんぽう)作の洒落本『美止女南話(みしめなわ)』には、西国の藩の侍(江戸の戯作でいわゆる「浅葱裏(あさぎうら)」とやや侮蔑的に扱われる国侍)を取引先の江戸の商家の息子株が芝神明前を案内する一節が見られる。随身門を出た侍は、両側の絵双紙屋の店番に立つ美しい娘たちに感嘆の声を上げるのだが、これも地方の武士客が多かったというこの地の特徴を踏まえての場面設定なのであろう。
 芝神明前に武家客が多かったことの理由については、前述のように芝神明前が東海道から一本内陸に入った通りで、かつ江戸の出口に近いということもあっただろうが、より大きな理由としては、この地の周囲に大名屋敷が数多く位置していたことも考慮される。江戸の絵図を見れば一目瞭然だが、増上寺と芝神明宮を東、北、西の三方から取り囲むように大名屋敷(それもほとんどが上屋敷)が密集している。大名屋敷があれば、そこに勤務あるいは居住する数多くの武士がいた。上・中・下屋敷のうち、藩主とその家族以外の家臣たちが最も数多く住んでいるのが上屋敷であり、大きな藩になると千人の単位であったことが指摘されている。いうなれば、芝神明前は大名街区に隣接する盛り場であり、客層も当然武士に偏りがちだったわけである。
 この点について、近年、岩淵令治により興味深い研究がなされている(岩淵 二〇〇四・二〇〇七)。岩淵は、八戸藩南部家二万石の上級藩士である遠山屯・庄七父子が文政一一年(一八二八)から元治元年(一八六四)の間に記した約一〇年分の江戸日記を読み解き、江戸における彼らのその行動を詳細に分析した。遠山父子は八戸藩の領国に居住する国侍で、この日記は彼らが江戸勤番を命ぜられて八戸藩上屋敷に居住していたときに書き留めたものである。非番の際の彼らの行動を見ると、両国や浅草といった江戸を代表する盛り場にはほとんど足を運んでいない。彼らの外出日数と時間が制約されていたことが理由だが、勤番武士として職務多忙であった遠山父子は、娯楽や買い物など、ほとんどの用向きを芝神明前で済ませているのである(二章一節四項参照)。勤番の折りに遠山父子が居住した八戸藩上屋敷は増上寺の西に位置し、芝神明前との間には増上寺の広い境内が横たわっていたが、それでも、他の盛り場に行くよりは遙かに近かった。遠山父子は国元の家族や親類縁者に頼まれて簪(かんざし)や櫛(くし)などの装身具もずいぶん購入し、飛脚で八戸に送っているが、そうした小間物類も『江戸循覧記』が記すように、芝神明前で売られていたものが多かったのであろう(大久保 二〇一三)。  (大久保純一)