その一つは、江戸の名所絵を手がける版元が目立つことである。この主題に関しては描き手としてもっとも注目されるのが歌川広重である。保永堂版「東海道五拾三次」で知られる広重だが、生涯を通じてもっとも数多く描いたのは江戸の名所である。
広重が描く江戸名所絵の版元は、芝神明前三島町の佐野屋喜兵衛(佐野喜)が多いことがすでに指摘されている。「東海道五拾三次」の成功で、彼が名所絵の描き手として急速に評価を高めつつあった天保前・中期は、同時に今日彼の作品に対する評価の高い時期でもある。その頃の江戸名所絵の揃物として、「日本橋之白雨」や「吉原仲之町夜桜」「亀戸(かめいど)天満宮境内雪」などの写実性の高い景観描写と豊かで繊細な季節感とのバランスがとれた秀作が多数含まれているとされる「東都名所」(広重には同名の揃物が多数あるので、佐野屋喜兵衛の堂号にちなんで「喜鶴堂版東都名所」などと呼ばれることもある)、狂歌師大盃堂呑枡(たいはいどうのみます)らの出資による私的な企画であったものが、その出来映えのすばらしさから市販用に改版された「江戸近郊八景」はいずれもこの時期に佐野喜から出された揃物である。いずれも広重の江戸名所絵の代表作との評価がなされている。佐野喜からはその後も大判、間判(あいばん)、中判など各種の判型による江戸名所絵揃物が複数出されており、広重と佐野喜の組み合わせが、江戸名所絵のジャンルで一種、ブランド化していたかのような観さえある。
芝神明前の代表的版元である和泉屋市兵衛もまた、広重の江戸名所絵揃物をいくつか手がけている。天保前期の「江戸名所之内」は五枚揃いと規模の小さい揃物だが、金砂子(きんすなご)を模した装飾性の豊かな雲を画面上下に配して華やかな作風を示し、やはり彼の江戸名所絵の代表作例に数えられている。
やはり芝神明前の版元である越前屋平三郎の開版で、一部の図で泉市と合版になっている「東都司馬八景」は、「高輪帰帆」(図5-1-4-1、口絵7)、「赤羽根之夜雨」(久留米藩有馬家江戸屋敷)、「愛宕山暮雪」「神明夕照」など、八図すべてで芝とその近隣の名所を描き、「田町秋月」(三田八幡宮)や「白銀晴嵐」(清正公祠)のように他の揃物には見られない場所も含むという珍しい題材選択の揃物だが、とくに芝神明前を来訪する顧客層をタ-ゲットに想定した企画なのであろう。こうした特定エリアに限定した江戸名所絵の揃物は「東都名所之内 隅田川八景」(佐野喜版)を除けば、きわめて類例が乏しい。「東都名所之内 隅田川八景」が江戸屈指の行楽地で四季を通じて多くの来訪者がある隅田川中流域の名所に焦点を当てたことからすると、地方出身者が多数集まる芝界隈ならば、そこを題材にした揃物でも十分に商機があると版元は判断したものと考えられる。
図5-1-4-1 歌川広重「東都司馬八景 高輪帰帆」(口絵7)
慶應義塾所蔵
芝神明前で他に広重の江戸名所絵の揃物を出版した版元として、若狭屋与市(若与)や丸屋甚八(丸甚)、万屋吉兵衛、丸屋清次郎、有田屋清右衛門らを挙げることができる。丸甚から出た「江戸名所三ツの眺」(三枚揃い二組で合計六枚)、「名所雪月花」など、それぞれ雪月花をテ-マにした名所絵で、天保後・末期の広重の江戸名所絵中の秀作との評価が高い。
江戸の名所を描いた錦絵の最大の顧客層は、地方から江戸に出てきていた人たちであり、彼らが国元に帰る際に江戸の繁栄をビジュアルに伝えられる土産として買い求めるものであった。前項で記したように、勤番武士をはじめ多くの地方出身者が集まる芝神明前の版元は、そうした人々を意識した江戸名所絵を数多く出版したのである。
いまひとつ、芝神明前の地本問屋にとって特色ある錦絵のジャンルとして指摘できるのが、忠臣蔵を主題としたものである(本章三節一項も参照)。忠臣蔵は江戸歌舞伎の「独参湯(どくじんとう)(万病に効く漢方薬からいつ上演しても当たる狂言の意)」と呼ばれるほど人気のある演目で、全一一段の内容はほとんどすべての江戸の人々に知られ、黄表紙などの戯作や咄本のネタに取り入れられるなど、ほとんど「古典」としての地位を確立していたといってもよい。当然ながら浮世絵の世界でも、この人気演目は格好の主題であった。実際に江戸三座で上演されている忠臣蔵の舞台を描いた役者絵はもちろんのこと、四十七士(場合によっては塩冶判官(えんやはんがん)や高師直(こうのもろなお)なども含む)各人を単独に描いて人物の概略を記した「義士の銘々伝物」というべき揃物、組み上げ絵や絵双六などの玩具絵、あるいは有名な場面と主要人物をすべて女性風俗に置き換えたような見立絵なども見いだされ、その多様性はつとに指摘されてきている。
これらの中で、「義士の銘々伝物」と称すべき揃物の流行は、嘉永元年(一八四八)の二月二九日から行われた六〇日間の泉岳寺の開帳と大きく関わっている。泉岳寺には浅野内匠頭(たくみのかみ)と赤穂浪士たちの墓所があり、彼らの遺品を公開する開帳は人気があったが、前回の開帳が天保七年(一八三六)とやや間があったため話題性も高かったようで、これを当て込んだ錦絵が数多く売り出されており、なかでも歌川国芳の画で、浮世絵師から戯作者へ転じた一筆庵こと溪斎英泉(けいさいえいせん)が一図ずつに義士の略伝を記した全五一枚の揃物「誠忠義士伝」が大当たりを取った。
『藤岡屋日記』には、この泉岳寺の開帳を当て込んで売り出された錦絵の数々について言及した箇所がある。
当春中、泉岳寺開帳之節も、義士の画色々出候へ共、何れも当らず、其内にて、堀江町二丁目佐兵衛店、団扇問屋にて、海老屋林之助板元にて、作者一筆庵英泉、画師国芳にて、誠忠義士伝と号、義士四十七人之外に判官・師直・勘平が亡魂、并近松勘六が下部の広三郎が蜜柑を配り候処迄、出入都合五十一枚続、去未年七月十四日より売出し、当申の三月迄配り候処、大評判にて凡八千枚通り擦込也、五十一番にて紙数四十万八千枚売れるなり、是近年の大当り大評判なり。
合計で四〇万八〇〇〇枚という枚数は、少なくとも文献に残る錦絵の販売枚数としては最大級のもので、これに刺激されてか同趣向の揃物が複数出版されている。三代歌川豊国の筆で、由良之助(ゆらのすけ)だけに焦点を当て、各図に場面の解説を付した「誠忠大星一代話」、泉岳寺に安置されている義士の木像を写し、漢詩の賛を付した歌川芳虎(よしとら)揃物「義士四拾七人之内」、やはり芳虎の筆で、一図中に討ち入り姿の義士を二人ずつ描く中判二四枚の揃物「義士銘々伝」(これは図中に外題を記さないことから揃物名は仮称)などである。『藤岡屋日記』の記すところでは、国芳のもの以外は不当たりだったようだが、忠臣蔵ゆかりの寺である高輪の泉岳寺の存在が忠臣蔵物の錦絵の出版に深く関わっていたことが見て取れる。
右の「銘々伝物」の中で、芳虎の「義士四拾七人之内」の版元は芝神明前の和泉屋市兵衛だが、数ある忠臣蔵物の錦絵の形態の中で、泉岳寺および芝神明前の版元と深い関わりがあるのが、一一段一一枚(場合によっては討ち入り後の塩谷判官の墓前への焼香までを含めた一二枚)の各段の内容を絵画化して一組となす揃物である。このような全段通しの絵解き的な揃物を仮に「各段通しの忠臣蔵揃物」と呼ぶことにするが、忠臣蔵主題の揃物の中では比較的数の多い形態である。
この種の揃物は、北尾政美(きたおまさよし)画の寛政前期の「浮絵仮名手本忠臣蔵」から幕末のものまで少なくとも二〇数種を確認するが、その内、和泉屋市兵衛、若狭屋与市、佐野屋喜兵衛、丸屋清次郎という芝神明前の版元が関わるものは九種に上り、全体の中でかなり高い割合を占めている。
それらの内、天保以後の揃物に、一一段一一枚揃いではなく、師直邸討ち入り後の菩提寺での焼香場面を加えた一二枚揃いのものが常態化する傾向がはっきり見いだせる。その最終の一二図目は、おしなべて菩提寺である鎌倉の光明寺に師直の首級を供え焼香する由良之助らを描くが(図5-1-4-2)、この光明寺は高輪の泉岳寺であり、焼香する義士たちの背景には海面に帆を下ろして停泊する船の浮かんだ、明らかに高輪海岸と見て取れる風景が描かれているのが通例である。
図5-1-4-2 歌川広重「忠臣蔵 焼香場」
天保期は浮世絵風景画がジャンルとして確立した時期である。他邦からの旅人が江戸滞在中に必ずといってよいほど足を運ぶ江戸屈指の名所でありながら、いまひとつ境内に見どころの乏しかった泉岳寺に関しては、寺そのものを描いた錦絵の名所絵がまったくといってよいほど出版されていないが、境内の高所にあった義士の墓所から見た高輪海岸をイメ-ジさせる「各段通しの忠臣蔵揃物」の最終図がその代用品的な役割を果たしていたのであろう。
地方出身者の顧客層を意識して江戸の名所絵を数多く手がけ、かつ泉岳寺からわずか半里ほどの距離に位置する芝神明前の版元が忠臣蔵物の錦絵制作に深く関わるのも当然のことだったのである。彼らが泉岳寺を詣でたその足で、芝神明前の絵双紙屋街を訪ねることが日常的にあったはずであり、その際に泉岳寺参詣の土産として、忠臣蔵物の錦絵を買うことは十分あり得たからである。
(大久保純一)