第五項 和泉屋市兵衛の活動

217 ~ 220 / 378ページ
 前項まで、芝神明前における浮世絵師と錦絵の版元の活動について述べてきたが、最後に何度も名前の出た和泉屋市兵衛(泉市)について触れてみたい。泉市は貞享年間から出版活動が確認される老舗で、天明頃から草双紙や錦絵などの出版活動が本格化したとされる。寛政九年(一七九七)刊の『東海道名所図会』の見開き挿絵にその店頭風景が詳しく描き出されているように、泉市が芝神明界隈の諸版元を代表する存在であったことは間違いない。ただ、同書はあくまでも東海道筋の名所を紹介する地誌であったため、街道に近い芝神明前に焦点が当てられ、そこの主要版元である泉市が取り上げられたのであり、江戸全体で考えると日本橋界隈の老舗版元がこの業界を代表するものであっただろう。実際、江戸とその近郊の名所を詳説した天保五年(一八三四)刊の『江戸名所図会』巻之一の挿絵「錦絵」の見開き挿絵に大きく取り上げられているのは、京都の書物問屋の江戸出店として一七世紀から大伝馬町で営業を始めている鶴屋喜右衛門である。近代文学研究者の鈴木重三も日本橋界隈の老舗版元が一流どころであり、芝神明前の諸版元を準一流と位置づけている(鈴木 一九七五)。
 しかしながら、こうした状況は幕末近くになると大きく変化していったと考えられる。年代は不詳ながら幕末期のものと推測される「江戸流行 買物重宝記」と題した一枚刷は、江戸の様々な業種の商人を一覧にしたものだが、その中にある錦絵の版元を取り上げた「草紙錦絵」欄に記された八版元の中に芝神明前の泉市と佐野喜の二つが含まれている。この一枚刷の欄外には、
 大江戸流行の諸商人、不可勝斗、今其高名なるもの九牛が一毛を挙る。猶追々後編に
 記すべし。敢て順次を撰まず。依てしだい不同は伏て高免を願ふのみ。
と、著名店を取り上げている。その記載順序に意味はないと断っているが、「新故書籍」(書物問屋)の最初に老舗最大手の須原屋茂兵衛が置かれているように、やはりそれなりに評価を意識した順序となっていると思われる。そして、「草紙錦絵」の八問屋の中で筆頭に記されているのは泉市で、佐野喜は五番目となっている。こうした刷物から、幕末期の地本問屋業界における芝神明前および泉市の評価の高まりが見て取れるが、幕府当局との交渉の場においても、諸版元を代表して泉市が重要な役割を果たしていたことがうかがえる史料も存在する。
 それは、弘化四年(一八四七)六月に、江戸の複数の地本問屋が連名で草双紙や錦絵の出版検閲を絵双紙掛名主宛に出した嘆願書で、その内容は、天保の改革の一環として同一三年の町触で禁止されていた役者絵の販売を許可してほしいというものである(『大日本近世史料 市中取締類集』一九、書物錦絵之部二)。
    以書付奉申上候
 一壱枚摺錦絵之儀、各方御見届印無之品売々((ママ))仕間敷(まじき)旨、兼て之被□仰渡相背(おおせわたされにあいそむき)、湯島六町目文助店多吉外拾六人、今般南 御番所え被召出(めしだされ)御吟味相成、於私共も奉恐入(おそれいりたてまつり)候、絵類之儀、遊女・芸者・歌舞妓役者之類不相成(あいならず)は勿論、子供踊抔(など)と唱候分も不宜(よろしからざる)旨、御沙汰有之相守罷在(まかりあり)候処、女絵又は名所風景等之絵柄而已(のみ)にては売捌(さばき)方不宜(よろしからず)、難渋仕候趣被及御聴(おききにおよばされ)、各方御相談之上、絵柄次第に寄、踊形容姿絵之類は御改相済候様相成、一同渡世致能(よく)罷成候所、右に付、御改正相弛み候抔と心得違仕候者(こころえちがいつかまつりそうろうもの)も有之(これある)哉、当時狂言座興行中之狂言似寄之絵追々差出、世評も不宜(よろしからず)以之外之儀に付、向後は前々之通り、踊形容之類も御改め被成間鋪(なされまじき)旨被□仰聞(おおせきかされ)、左候ては一同難渋仕候間、私共御歎願申上候上は、何様にも同渡世之儀に付厚く世話仕、私共最寄々にて平生心付可申(もうすべし)(以下略)
 ここでは、「女絵」や「名所風景等」の絵だけでは、売れ行きが芳しからぬので、「踊形容姿絵」の類は絵柄によっては改めを通しているのだが、そのことを規制の弛みと誤解し、興行中の芝居に似た役者絵を出版している事態もあると述べている。これに対する規制として、「踊形容姿絵」まで禁止になっては、業界が難渋するというわけである。この点に関しては、前年の一一月に、「全古風之絵組にては捌ケ方不宜より」という事情を考慮し、「全歌舞伎役者似顔・遊女・女芸者、其外風俗に可拘(かかわるべき)品に無之(これなき)踊形容之絵姿位之儀は、改印致し候様相成候共、強て風俗に拘候と申程之儀も有之間敷候間」として、許容したことを踏まえている(同前)。版元としては、売れ行きの良い役者絵を、それがかなわなければ役者絵に似た絵柄の錦絵を売りたいというのが本音だったのである。
 そして、ある意味では錦絵業界全体の切なる願いを連名で申し出た八版元の筆頭に名を記すのが泉市で、その次が佐野喜であり、南伝馬町(現在の東京都中央区京橋)の蔦屋吉蔵、堀江町の山本平吉、馬喰町の山口屋藤兵衛などが後に続いている。幕末のこの時期、泉市は同業者の中で主導的な役割を果たす版元となっていたのである。
 なお、泉市は開港後の横浜において、開港地に新たに開業した版元、新栄堂こと東屋新吉と提携して開港地の風景や風俗を描く横浜絵の分野にも進出していることが指摘されている(桑山 二〇一八)。神奈川県立図書館所蔵の「横浜風景画帖」と題した錦絵の貼り込み帖には、泉市が自店で顧客のために調えた錦絵画帖に見返しとして貼り込むための、松に鶴亀の島台に日の出を描いた口上書とともに、新栄堂との連名の口上書も貼り込まれている。泉市が横浜での販路獲得のために新興の新栄堂と業務の提携をはかったのだが、新栄堂も錦絵の制作や販売のノウハウを得るため、有力版元の泉市を頼ったのであろう。
 泉市があった芝神明前は江戸市中と横浜を結ぶル-ト上に位置するともいえる。泉市が地方への書籍の販路拡大に熱心であったことは指摘されているが(鈴木 二〇〇七)、横浜という新市場への進出に関してはそうした地理的な条件も与(あずか)るところがなかったとはいえないであろう。             (大久保純一)