年中行事とは、一年ごとに同じ日、もしくは同じ暦によって決められた日に、同じ様式の習慣的な営みが繰り返される一連の行事をいう。個人的に繰り返す行事というよりは、家族や村落・町内など集団ごとのしきたりとして、共通に営まれるものをいう。行事を実行・参加することによって、共通の目的や祈願を実現するところに意義を求めているのである。
江戸の町は第一次産業(農業・林業・漁業)従事者がほとんどいない状態で、それ以外の産業従事者を多く抱えた都市であることから、村落において典型的にみられるような農業を中心とした生活リズムではなく、比較的早い段階から、都市の年中行事が成立していた。その特徴の一つとしては、人々の生活に必要な行事のほかに、信仰やそれに関わるイベント要素の強い行事が通年的に行われており、寺社を舞台に行われることが多い。
ここではまず、一九世紀前期の江戸の全体的な年中行事の一年間の流れを述べ、次に港区域で特徴的なものをみておきたい(『東都歳事記』他)。
正月は元日の朝、深川洲崎(現在の東京都江東区東陽)・芝高輪などの浜辺にて日の出を礼拝するとともに、「若水汲み」といって、元旦に初めて汲む水を飲めば、一年の邪気が祓(はら)えるとされていた。元旦から諸大名らの初登城があるなか、町人社会では元旦のみ、あるいは三が日には、家屋の掃除をしないという風習があった。これには新しい陽気を祓わないようにとの意識があった。商家では二日は「初荷」といって、新年の商初めに飾り立てた車や牛などに商品を積み、取引先へ送り届けるのが慣例だった。江戸では七日までを「松の内」といって松飾りがなされており、一一日には鏡開きが行われた。もとは二〇日に行われていたのだが、三代将軍徳川家光の命日と重なってしまったことから、一一日に改められたと伝えられている。鏡餅を割る際に刃物を使うことは忌まれ、手で割るのが作法とされた。またこの間の七日には五節句の一つ人日(じんじつ)があり、七草粥(ななくさがゆ)を食べる習慣で知られる。
ところで、正月と七月の一六日は閻魔(えんま)の縁日とされ、閻魔像や十王像を安置する寺院や堂舎へ参詣に出かける行事があった。閻魔信仰の上では毎月一六日を閻魔の縁日としているが、特に正月一六日を「初閻魔」、七月一六日を「閻魔の大斎日(だいさいにち)」といっていた。この日は同時に商家の奉公人の藪入(やぶい)りでもあり、双方が重なって、寺院は多くの人々で賑わった。なお、俗にこの日は「地獄の釜の蓋が開いて、亡者も責め苦を免れる」といわれることから、奉公人の休日となったともいわれる。ちなみに、節分は立春の前日に行われていたが、旧暦の当時は一定ではなく、一二月に該当することもあった。鬼を払う行事として、平安時代頃から行われた「追儺(ついな)」に加え、室町時代に中国から豆撒きが伝わり、年男が豆を撒いたほか、江戸では鰯の頭や柊の枝を戸口に挿して、強い臭気で邪霊悪鬼の侵入を防ごうとする風習もみられた。
二月の最初の午の日である初午(はつうま)には稲荷神の祭礼を行うのが慣例で、稲荷小祠(しょうし)の多い江戸では、この初午が特徴的な習俗である。天保九年(一八三八)に刊行された『東都歳事記』初午の項には、①前日から賑わっていること、②江戸には稲荷が多く、武家屋敷には必ずといってよいほどに勧請されていて、町内には三~五社ほど、そして寺社の境内にもしばしばみられること、③寺社境内の稲荷については幣帛(へいはく)を捧げ神楽をともなうもので、市中の稲荷についても提灯(ちょうちん)や行灯(あんどん)を灯し色とりどりの幟を立て、神前に灯火を捧げ供物を供える、④市中の稲荷に男児が集まり、終夜太鼓を打ったり笛を吹いたりする、⑤「千社(せんしゃ)参り」と称して、小さい紙に自分の住所や名前を記した札を市中の稲荷に貼って歩く中流以下の者が多いこと、⑥二月は小宮や鳥居を制作・販売している神田紺屋(こんや)町(現在の東京都千代田区神田紺屋町、鍛冶町)辺りの店にこれを求める人が非常に多いこと、⑦初午の前には市中に絵馬や太鼓を売り歩く者が現われることなどが記されている。
春秋の彼岸には、行楽を兼ねて六か所の阿弥陀如来を詣でる六阿弥陀参(ろくあみだまいり)や、三十三観音札所参などが盛んだった。三月三日は五節句の上巳(じょうし)であり、元来は三月の初巳の日(のちにこれが三月三日に固定)に神に供物を供えて、災厄を祓うという意味とともに、人形(ひとがた)に自身の穢れを移して水辺に流すという中国の風習にならったものだった。当初は紙製の立雛が主流であったが、やがて庶民の間で女児の成長を祈るという風習となり、室内に雛人形や雛道具などを飾って盛大に祝うようになっていった。
四月朔日(ついたち)は衣更(が)えの日とされ、この日から足袋は着用しないことになっている。そして四月八日の灌仏会(かんぶつえ)は釈迦の誕生日に寺で行われる仏事である。「花祭り」ともいわれ、花御堂(はなみどう)に盆を置いて、仏像に甘茶をかける慣習があった。この日仏前に供える餅を、「いただき」または「花くそ」といい、在家でも新茶・卯の花を仏前にささげ、戸外にも卯の花を挿した。
五月五日は端午(たんご)の節句で、病気厄災を祓う行事である。邪気を祓うとされる菖蒲(しょうぶ)や蓬(よもぎ)を身に付けたり、家屋に掛けたりした。ことに武家社会では菖蒲は「尚武(しょうぶ)」に通じるとされ、男の子の節句と考えられるようになり、最初は武家色が濃かったが、徐々に町人世界へと広がっていき、一九世紀には江戸庶民の行事・男子の節句として定着していった。なお、端午の節句の飾りには、屋外に飾られる「外飾り」と、屋内に飾られる「内飾り」があり、貞享年間(一六八四~一六八八)頃の飾りは、屋外に飾る冑人形や旗・幟の「外飾り」が主流であった。元は武家屋敷の軒先に飾られたようで、貞享五年(元禄元・一六八八)成立の『日本歳時記』によれば、当初の冑人形は厚紙に人形を彫り付け、薄い板を冑の形に作り、これに長い棒を取り付けて幟や槍・長刀などとともに軒先に並べたものであったという。こうしたものに彩色を施したり、甲冑を着せて迫力を出したりと徐々に華美になっていき、享保年間(一七一六~一七三六)に町触で禁じられるようになった。その後の度々の禁令の結果、「外飾り」としての冑人形は廃れて、軒先には旗幟だけが残った。やがて、冑人形は屋内に飾られる「内飾り」となり、表通りの縁側や座敷、床の間に飾るものとして小型化していったのである(なお、こうした小型化の変遷は雛人形・雛道具も同様である)。また、この日には柏餅やちまきを食べる風習があった。
六月朔日は氷室(ひむろ)開きで、寒中に貯えておいた氷の室を開く日。江戸では本郷の加賀藩前田家上屋敷内で氷室を所有し、そこで貯えられていた氷を将軍家へ献上する儀礼があった。またこの日は、町人社会では富士講の信者を中心に、江戸の各所に造られた富士塚に参拝する富士祭(富士参り)が行われる日でもあった。そして、同月二五日頃からは大山(神奈川県伊勢原市・秦野市・厚木市境にある標高一二五二メ-トルの山)の頂上にある阿夫利(あふり)神社に参拝する大山詣(おおやままいり)(大山石尊詣ともいう)の人々が江戸を出立し、日本橋から大山まで約一八里(七〇キロメ-トル)の道のりを、片道二日がかりで出かけている(後述)。
一方、土用は年に四回(立春・立夏・立秋・立冬の前のそれぞれ一八日間)あるが、六月の土用に行事が多いのが特徴である。この時期には土用見舞として親戚などに贈答を行ったり、土用掃きといって家の中の塵を払うことをしていたほか、土用干しが行われた。土用干しではドクダミ、センブリなどの薬草を土用中に干すと薬効が倍加するといわれ、梅干なども干された。また、衣類や書物などの虫干しも行われ、寺院などは什宝を広げ、学者・文人や収集家などは自分の所有する自慢の品を仲間内で公開するなどしていた。
夏至の日あるいは七月七日になると、江戸の町々では井戸を浚(さら)い、水を改める井戸替え(井戸浚い)が行われた。これは疫病を防ぐための行事であった。七月には朔日から晦日まで各寺院で施餓鬼(せがき)が行われ、特に二五・六日に庶民が多く参詣した。そして七月七日は七夕で、これは女子の手芸・裁縫技術の上達を願う行事である中国の乞巧奠(きっこうでん)に由来し、奈良時代に宮中で取り入れられた。織姫(棚機津女(たなばたつめ)・織女星)と彦星(牽牛(けんぎゅう)星)の伝説や、祓の行事が重なって民間に広がり、近世では参勤交代で江戸にいた大名たちが白帷子を着用して江戸城に登城し、将軍家へ祝賀の謁見を行った。そして、江戸庶民は青竹に短冊や色紙を付けて高く掲げたほか、この日には素麺を食べる慣習があり、さらに前日には硯や机をきれいに洗うという習わしがあった。
七月一三~一六日には盂蘭盆会(うらぼんえ)があり、江戸では各家で霊棚(たまだな)を設けて霊魂を迎え、一三日の夜に迎え火、一六日には送り火を焚いた。またこの時期に閻魔参りと藪入りがあることは、さきに述べたとおりである。
八月朔日は古来「田(た)の実(み)節句」と称して新穀の実りを祝ったことから、「たのみ祝い」といわれ、特に武家社会では品物を贈り合う習わしがあった。さらにこの日は天正一八年(一五九〇)八月朔日に徳川家康が江戸入りした日であることから、将軍家の祝賀が行われた。江戸にいた諸大名は白帷子を着用して総登城し、祝意を表した。また同月一五日は仲秋の名月で知られる月見が各所で行われるとともに、各所の八幡宮で放生会(ほうじょうえ)が行われた。これには亀や鳩などの生物を解き放って自然に返すことで、死者の冥福を祈り後生を願う意味があったのである。
九月朔日は衣更えの日であり、冬支度を始め、一〇日からは足袋を着用することとなっていた。また九月九日は五節句最後の重陽(ちょうよう)に当たる。平安時代に宮中の年中行事に取り入れられ、菊の宴が催されたため、「菊の節句」ともいわれる。江戸にいる大名たちは小袖を着用して登城し、菊酒を飲む一方で、町人たちは習い事の師匠の元に出向き、祝賀を述べる風習があった。
九月一三日にも月見があった。これを「後(のち)の月見(つきみ)」といい、八月と九月のどちらかのみの月見は「片月見」といって忌まれた。大奥では月見の宴が催されたほか、船中で月見をする者も多かったといわれる。当時の習慣として、栗・柿・枝豆・衣かつぎなどとともに、米の粉で作った団子を供えることになっていた。なお、このとき団子の大きさは、三寸五分から二寸(一〇・五~六センチメ-トル)余りと決まっていたようである。また、この月には秋分前後に秋の彼岸として三月同様に六阿弥陀参・三十三観音札所参などが行われた。
一〇月の上亥の日は玄猪(げんちょ)といって、大名たちは登城して将軍から白赤の餅を受ける慣習があった。また、江戸庶民は亥(い)の子餅(いわゆる「ぼた餅」)を作り、亥の日亥の刻に食べると、万病を除くといわれていて、この日から炬燵(こたつ)を用意する風習もあった。また、二〇日は商家で夷講(えびすこう)(恵比寿講)が行われた。一月二〇日にも行われていたが、こちらの方が規模が大きく、恵比寿像を祀って祝宴を催す祝祭行事だった。
一一月八日はふいご祭で、鞴(ふいご)を使う金物関係の職人の間で行われ、彼らが鍛冶屋や稲荷社に集まって行うこともあった。この日、江戸の町なかでは職人たちは仕事を休んで賑やかに祝い、みかんを撒く習慣があったが、しばしば喧嘩や口論が起こるため、毎年のように町触で取締の条項が出されていた。
また一一月は、江戸時代においては、三歳男女の髪置(かみおき)、五歳男子の袴着(はかまぎ)、七歳女子の帯解(おびとき)が行われた。現在ではこれらを七五三と称しているが、一五日を中心にこの月に産土神(うぶすながみ)(氏神)に参詣する習慣があった。もとは武家の習慣であったが、一八世紀になると町人社会へと広がっていった。この月には一年の中で最も日が短い日である冬至があり、この日は雑煮を作り家族や奉公人に与え、一陽来復(いちようらいふく)を祝うほか、風呂屋では柚湯(ゆずゆ)を焚くのが慣例だった。
一二月は行事が多く、まず一三日には煤払(すすはら)いが行われた。江戸城の「御煤納め」が一三日に行われることから、江戸の町でも主にこの日に行われるようになり、掃除の最後には、「ご祝儀」と称して胴上げをして締める風習があった。そして一四~二六日には年の市があり、江戸では、二〇日を過ぎると正月用の餅を搗(つ)き始め、だいたい二七日までに搗き終えていた。なお、二九日には「苦餅(くもち)」といって忌む風習がある。武家や裕福な商人は自家で奉公人などに餅を搗かせたが、庶民は賃餅という街頭の餅搗屋に依頼して搗いてもらっていた。