第二項 赤坂氷川祭

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 江戸の祭礼は山王祭・神田祭をはじめ、長い行列を仕立てて氏子域を巡行する大型祭礼が数十あった。これらはいずれも多くの見物人があって、見られることを強く意識したパフォ-マンスを伴うところに特徴があった。また、大規模な祭礼には、氏子町から多くの山車や附祭(つけまつり)が出された。山車は元来、神の依代(よりしろ)(神霊が寄りつく物)の役割があったが、江戸時代、「出し」や「車楽(だし)」と表記されることが多く、近代になってから「山車」と表記されるようになった。各氏子町の出し物としてしだいに造り物(動物・草木や伝説上の人物・妖怪などを模造したもの)や人形を用いた大掛かりなものに発展していった。毎回定番の山車の他に、さらに余興として造り物や練り物・仮装行列などを出すことが多かった。これが附祭である。附祭は本来臨時的なものだったが、氏子たちは山車の内容が固定化していくのにともなって、その時々の流行やニュ-スを盛り込んで、毎回趣向を変えられる附祭に力を注ぐようになっていった。
 八代将軍徳川吉宗の庇護のもと、社殿を造営した赤坂氷川社(三章四節二項参照)の祭礼は、氏子域が外堀をはさんで山王権現と隣接する赤坂地域に広がっていることもあって、山王祭と隔年の六月一五日に行われていた。こちらの祭礼は二基の神輿と、二一の氏子町が出す山車一六番、それに附祭からなり、江戸城内の上覧所を通行する山王祭・神田祭よりは小さいが、一ツ木町の旧地を御旅所(本社から渡御した神輿を巡行の途中で一時的に安置する場所)としていた。行列の主な構成は、榊-神馬-猿田彦-獅子頭(二体)-山車(一~一六番)-幟(二本)-四神鉾-神輿(二基)-神主(斎藤氏)騎馬-社家(しゃけ)(実際は神社に奉仕する社僧)(二人)-別当乗輿-毛槍(二〇筋)というものだった(『東都歳事記』)。
 具体的な巡行ル-トについて述べると、朝五ツ時(午前八時頃)赤坂氷川社を出立後武家地の間を通り、赤坂田町五~一丁目→赤坂表伝馬町一~二丁目→赤坂裏伝馬町二~三丁目→元赤坂町→赤坂裏伝馬町一丁目→赤坂御門外広小路→赤坂表伝馬町一丁目→元赤坂町代地→一ツ木町→赤坂新町三~五丁目→武家地(俗称赤坂中ノ町)→帰社というものだった。
 赤坂氷川社は氏子町とは少し離れており、周辺に武家屋敷が多いことは、幕末の切絵図などでも容易に知ることができるが、紀州藩をはじめ、武家社会にも氏子意識はあったようだ。
 例えば、神社の北西に屋敷を構えていた森山孝盛(一七三八~一八一五)は四〇〇石の旗本で、彼は松平定信の信任厚く、徒頭(かちがしら)・目付・火付盗賊改(ひつけとうぞくあらため)などを歴任した人物である。彼の明和七年(一七七〇)から文化八年(一八一一)までの日記「自家年譜」を見ると、二年に一度の氷川社祭礼の際には、町方から勧化(かんげ)(寄進)の依頼があり、毎回金二朱を出している。また、それと同時に赤坂氷川社にも同額の金二朱を納めていた。祭礼当日は屋敷の門の脇に物見と出格子を設け、親戚や知人の旗本を呼んで祭礼行列の見物をしている。このとき森山家では、物見に毛氈(もうせん)を敷き、幕を張って立派な飾り付けをし、招いた客には赤飯や酒などを振る舞っている。なお、赤坂氷川社南側に中屋敷を構える松代藩真田家でも、祭礼当日は赤飯を炊き、上屋敷・中屋敷の居住者たちでこれを祝っている。
 このように、氏子町人が主体となった赤坂氷川社の祭礼行列の巡行は、武家の見物までをも意識して大いに盛り上がり、天下祭によく似た要素を備えていたのである。
 ところで、町奉行所では御用祭(将軍の上覧がある祭礼で「天下祭」ともいわれる)である山王・神田両祭礼とこの赤坂氷川祭礼に警護の与力・同心を配置していた。将軍の上覧のない代わりに、両祭礼に次ぐ「第三の祭」として別格に位置付けていることがわかる。これには八代吉宗以降一四代家茂までの歴代将軍が紀州系の血筋によって継承されていったことも大きく影響していたと考えられる。
 赤坂氷川社の氏子町ごとの山車の編成をまとめたのが表5-2-2-1である。寺社門前以外は氏子町が一六番に編成されており、ことに由緒のある赤坂一ツ木町(現在の赤坂四~五丁目)は、元禄九年(一六九六)に村から町に変わり、飛び地が多いのが特徴である(三章四節二項参照)。この飛び地のなかには、それぞれ「魚店」「大沢町」「西大沢町」と通称されるところが含まれていて、祭礼の際には通称を名乗り、一一~一三番としてそれぞれ参加していた。そして山車以外にも氏子町が当番で仕立てた附祭が三種類出されるのが通例だった。
 

表5-2-2-1 赤坂氷川社の氏子町の山車編成
「町方書上」(国立国会図書館所蔵)、「御祭礼番附留」(赤坂氷川社所蔵)をもとに作成


 
 また、赤坂表伝馬町(現在の元赤坂一丁目)、同裏伝馬町(現在の元赤坂一~二丁目)、赤坂田町(現在の赤坂一~三丁目)は南伝馬町二丁目名主高野新右衛門と同三丁目名主の小宮善右衛門の共同支配で、実際には町内の家持(居付地主)から選出された二名の「下名主」が管理運営にあたっていた。これは南伝馬町(現在の東京都中央区京橋)が寛永一四~一五年(一六三七~一六三八)に起きた島原の乱(島原・天草一揆)の際に馬を提供したことに対する恩賞として、赤坂御門外の地を与えられ、これらの町が拓かれたという経緯があったためである。南伝馬町といえば、大伝馬町(現在の東京都中央区日本橋本町、日本橋大伝馬町、日本橋小伝馬町)とともに江戸最古の町として山王・神田の両祭礼に山車を出す別格の由緒があった。こうした点からも赤坂氷川社の祭礼は、天下祭の要素を色濃く取り入れた祭礼であることが推測できる。
 ところで、同祭礼には刊行年の異なる複数の祭礼番附(ばんづけ)が現存している。山車や附祭の巡行する大規模な祭礼の場合、このような番附が出されることが多かったが、同社の祭礼は同規模の巡行が中断・中絶することなく隔年で幕末まで続けられた点からも、江戸の代表的な祭礼といえよう。
 また、小日向廓然寺(こひなたかくねんじ)の隠居十方庵敬順(じっぽうあんけいじゅん)は『遊歴雑記』(一八一二~一八三二頃)において、山王祭を「江城第一の大祭」とし、「神田明神の例祭之に継ぐ、赤坂氷川の明神、白山権現、亀戸天神等その次にならぶべし」と述べている。そして神田雉子(きじ)町(現在の東京都千代田区神田司町)に住む町名主の斎藤月岑(げっしん)も『東都歳事記』で「山王権現、神田明神に続し大祭祀なり」と述べている。
 こうした点をよく示しているのが、図5-2-2-1の「諸国御祭禮番附」だろう。相撲の番付のように様々な事物をランク付けした摺物を見立(みたて)番附といい、一九世紀に流行したが、こちらは全国の祭礼をランク付けしたもので、東の一段目に六月一五日の「山王御祭」、九月一五日の「神田御祭」にならんで、「六月十五日 赤坂氷川御祭」が見える。一般の人々のあいだでも、赤坂氷川社の祭礼が「江戸第三の祭」と認識されていたことを物語っているのである。    (滝口正哉)
 

図5-2-2-1 「諸国御祭禮番附」
徳川林政史研究所所蔵