第三項 麻布氷川祭

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 麻布一本松(現在の元麻布一・三丁目、麻布十番一~三丁目)の麻布氷川社(三章四節二項参照)の祭礼も、江戸の大型祭礼の一つに数えられる。麻布氷川社は、天明年間(一七八一~一七八九)に祭礼日を九月一七日から八月一七日に移し、寛政三年(一七九一)、文政三年(一八二〇)、文政一三年(天保元・一八三〇)、天保三年に山車を仕立てた巡行行列がみられた。図5-2-3-1に掲げた祭礼番附は文政一三年のもので、宮下町(現在の麻布十番一丁目)の御旅所まで巡行した。
 
 前述の斎藤月岑が著した『武江年表(ぶこうねんぴょう)』の記述によれば、寛政三年八月一七日の記事に、「麻布本村氷川明神祭礼出し練物等出る(其の後休む)」とある。そして文政三年八月一七日の記事には、「麻布一本松氷川明神祭礼再興、産子町々出し練物等を出す(其の後中絶す)」とあるほか、文政一三年八月一七日の記事に「麻布一本松氷川明神祭礼、四十年目にて産子の町々より出しねり物等出る」、天保三年八月一七日の記事に「麻布氷川明神祭礼、花出し練物等出る。其の後中絶す」とある。このように、麻布氷川社の祭礼は、幕府の支援を受けて行われる山王祭、神田祭、赤坂氷川祭とは異なり、中絶期間が多く、断続的に行われていたことがわかる。こうした傾向は、深川富岡八幡宮や浅草三社(さんじゃ)権現、亀戸天神などの祭礼と同様である。つまり、巡行行列に山車や附祭を仕立てた江戸の大型祭礼は、氏子町の資金力に依拠しており、一定の祭礼資金が見込める時期にのみ行われたと考えられるのである。
 
 文政一三年の祭礼については、三〇〇〇石の旗本石川畳翠(じょうすい)(一八〇七~一八四一)の『松窓雑録(しょうそうざつろく)』(早稲田大学図書館所蔵)に詳述されている。それによれば、四二年ぶりに大規模の祭礼を行ったとしているが、『武江年表』の記述とは間隔が異なっている。とはいえ、寛政改革が本格化して以来、初めて盛大に行われた祭礼が文政一三年だったと解釈できよう。同史料にはこの年に出された祭礼番附が挟み込まれていた(図5-2-3-1)。祭礼の数日前から街中で頒布される祭礼番附によると、山王祭、神田祭、赤坂氷川祭は一八世紀末以降ほぼ毎回出されていたことが確認できるが、他の祭礼の場合は、富岡八幡宮、亀戸天神、湯島天満宮、青山熊野権現、赤城明神など数か所の祭礼番附が単発で確認できる程度である。それゆえ、世間の動向に敏感な版元たちがこうした祭礼番附を出したということは、前評判が高く、江戸の住民に広く注目される祭礼だったことがわかる。その祭礼番附によれば、このとき麻布氷川社では氏子町を一~八番に編成し、「だし」(山車)と引物を中心とした構成になっていて、各番組から複数の出し物が出されていた(表5-2-3-1)。
 

図5-2-3-1 「麻布氷川大明神御祭礼番附」 文政13年(1830)
『松窓雑録』天保7年(1836) 早稲田大学図書館所蔵


 
 畳翠は麻布古川町(現在の南麻布一丁目)の屋敷に住んでおり、屋敷前を祭礼行列が巡行したようで、「この度ハ山王にも劣らぬ出立にて、金銀の繍羅紗猩々緋(ぬいとりらしゃしょうじょうひ)を四五枚ツヽ着す、余ハ皆推てしるへし、出し引物の類も以前に百倍せりと云、其混雑大方ならず、余り広大に及ひし故過半ハ留られたり、人々遺憾に堪すや、獅子江内々にて留られし分計祭前日十六日に処々を引たり、予か屋敷前も通りたり」と述べているように、その表現にはいささか誇張があるものの、氏子町が出す山車や附祭が山王祭に匹敵する盛大なものとなり、これまでにない規模の山車や飾り付けの準備が行われていた。そして派手な衣装が用いられたこともあって、当日を迎える直前に町奉行所の役人に制止され、規模の縮小を余儀なくされたようである。なお、当日巡行できない部分は前日に巡行があって、「予が屋敷辺ハ早朝に榊、午後に引物二ツ、夜に入て神輿計」とあるように、畳翠は屋敷前を通行するさまを見物している。しかし、実際には久々に大規模に行われることもあって、氏子町の面々も取り締まる町奉行所の役人側も段取りが極めて悪く、巡行も各町が思い思いに山車などを引き回すゆえに統率が取れておらず、「通る処ハ二三度も往来し、通らぬ処ハ一ツも来らす」という有様だった。そして巡行路には坂道が多いため、かなり手間取ってしまい、日暮れになっても巡行が終わらなかった。そこで町奉行所では夜間の巡行を禁じたため、中断せざるを得なかったという。
 

表5-2-3-1 麻布氷川社祭礼の出し物(文政13年〈1830〉)
『松窓雑録』をもとに作成


 
当日は麻布周辺の武家屋敷や、氏子町の表店では桟敷を設けて幕を張り、金屛風(きんびょうぶ)・紅の毛氈などを設けて行列の巡行を見物したようで、このような光景は、まさに山王祭や神田祭に匹敵するものだったことがわかる。しかし、上記のような不手際もあって、祭礼後には、取り締まりにあたった町奉行所の同心や、氏子町の町名主たちが「叱り」の処罰を受けている。そのため、氏子町の面々は話し合い、きちんとした準備のもとで二年後に同規模の祭礼を行うことを約している。
 なお、同社には、天保三年(一八三二)に麻布上之町谷戸(現在の南麻布三丁目)の若狭屋清吉、中山吉右衛門が願主となって制作した山車人形「高良大神(こうらおおかみ)」が現存していることが知られる。これはまさに上記祭礼の二年後のことであり、山車の新調には前回の反省が込められていたと考えられる。
 さらに、文久二年(一八六二)九月、後藤三四郎橘恒俊が制作した獅子頭も現存しており、「氷川徳乗院現住栄運」の他に、世話役として氏子の本村屋善吉、御殿三文字屋藤兵衛、大坂屋九兵衛、美濃屋三之助、伊勢屋、万屋、小泉、川越屋吉右衛門、坂田屋(山岡)、三河屋喜三郎、中泉、頭取伝二郎の名が見える。また、神酒箱も現存している。箱書には年代や製作者などの情報がないものの、中に納められている神酒徳利は麻袋に入っており、袋には「文政元年 寅七月吉祥日 御神酒」と記されているほか、徳利底面には「錫(すず)屋九左衛門」と彫られている。貞享・元禄期(一六八四~一七〇四)に西紺屋(にしこんや)町(現在の東京都中央区銀座)の錫道具師に錫屋九左衛門、駿河町(現在の東京都中央区日本橋室町)二丁目の錫道具師に錫屋久左衛門があることから(『江戸鹿子』『京都江戸大坂諸職名匠買物重宝記』『国花万葉記』)、やはりこの徳利も右の系統の錫道具師に制作を依頼したものと考えられる。  (滝口正哉)