第四項 芝神明宮だらだら祭

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 次に本項では芝神明宮(三章四節三項・本章三節四項・同四節二・三項参照)の祭礼について取り上げていきたい。まず祭礼日についてであるが、元禄年間(一六八八~一七〇四)刊行の『江戸惣鹿子(そうかのこ)』には、九月一六日だけが祭礼日に充てられていたが、享保二〇年(一七三五)に刊行された『続江戸砂子(すなご)』では、一四~一六日が祭礼日となっている。その後、嘉永四年(一八五一)成立の『俳諧歳時記栞草』には、一一~二一日に祭礼を行うとされていることから、芝神明宮の祭礼はしだいに期間を延ばし、幕末を迎える頃には、現在のような形式になったと考えられる。現在と大きく異なるのは、『東都歳事記』に「奉幣御祓神楽あり」と記載があるだけであることからわかるように、当時は神輿や山車の巡行などはなかった点である。なお、同書ではその代わりに祭礼の期間中、氏子の町々では挑灯(ちょうちん)や幟(のぼり)を出すと述べている。
 この祭礼の名物といえば、境内に生姜、千木箱(ちぎばこ)、甘酒を売る床見世が出されることであろう。これらの記述は江戸の地誌や名所案内、年中行事を紹介した書などに散見される。例えば、享保一七年に刊行された『江戸砂子』に「生姜市」として記述がある。それによれば、当時はまだ九月一四~一六日の三日間の祭礼で、この期間中に「曲物の小櫃(しょうひつ)、臼、杵、木鉢、果、土生姜」が商われているとし、「専にせうがを求むる也」と述べている。これらは元来神前に供えるために用意されたものと思われるが、生姜は近隣の村々から持ち込まれ、まさに市の様相を呈しており、その後も生姜がこの祭礼を象徴するものだったことは、図5-2-4-1ほか、幕末期の錦絵に盛んに紹介されていることからも明らかである。また、江戸後期刊行の『増補江戸年中行事』には、「今ハ十一日よりはせうが市立」とし、「ちき箱とて小判なりの曲ものゝ小箱に藤の花をゑがきたるを売る」とあるように、千木箱が紹介されているが、これは前述の「曲物の小櫃」に相当するものと考えられ、図5-2-4-1では右側の女性が二段に重ねた千木箱を手に提げているのがわかる。
 

図5-2-4-1 「江戸自慢三十六興 芝神明生粋」
国立国会図書館デジタルコレクションから転載


 
 この祭礼は「生姜祭」とも、「めくされ市」「めっかち市」とも呼ばれたが、後者はここで生姜を売る者に隻眼(片側の目や視力を失った者)の者が多かったことによる説のほか、生姜が芽を欠いているから、あるいは摂社の住吉社が眼病に霊験があるとされて、目洗薬を頒布していたからだとも言われていた。
 そして千木箱については、『東都歳事記』では宣化(せんか)天皇の時代(五三六~五三九)に諸国に屯倉(みやけ)(大化以前の朝廷の直轄領)を設けた際、この地にも屯倉ができて地元の住民が飯を扱う器を製造していたことに起源を求めている。元々は藤の蔓で編んだ器に餅を入れていたというが、江戸時代は丹、緑青や胡粉などで藤の花のデザインを描いた曲物に、飴を入れたものが売られていた。この藤の花のデザインについては、十方庵敬順の『遊歴雑記』に地元の古老が語ったという説が紹介されている。それによれば、芝海手の小田原藩大久保家上屋敷内に稲荷があって、かつてその稲荷が流行神化して多くの参詣者が群集したことがあったという。これを当て込んだ商人が大久保家の家紋である「上がり藤に大の字紋」になぞらえて飯櫃(めしびつ)の器の蓋に藤の花を描いて売り出した。ところが大久保家ではやがてこれらの商人を禁じたので、売れ残りを芝神明宮の生姜市に持ち込み、中に飴を入れて売り始めたのがその嚆矢(こうし)だというのである。なお、この千木箱は千木が「千着」に通じるとして、女性はこれを箪笥(たんす)に入れておくと衣類に恵まれるという俗信があったほか、近隣に屋敷を構える薩摩藩島津家では、この千木箱を毎年将軍家や大奥に献上していたという(『絵本江戸風俗往来』)。
 ちなみに、『東都歳事記』には甘酒の記述もある。これは、神前に供えたあと参詣者に振舞ったことに因むといわれ、氏子町の家々ではこの時期来客に甘酒を振舞う風習があったという。なお、この他にも一八世紀までは臼・杵、木鉢などを模した玩具を売る床見世があったという。  (滝口正哉)