納札活動の展開

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「名所江戸百景」には目録が一枚付属しており、これを描いたのが梅素亭玄魚(ばいそていげんぎょ)(一八一七~一八八〇)である。玄魚は筆耕のかたわら、様々な文芸活動を行い、ことに錦絵や千社札への意匠協力においても大きな足跡を残している。その玄魚が描いた図5-3-1-1の「千社参詣出世双六」には、幕末期に江戸で名所とされる寺社が取り上げられている。振り出し(同図では「はりはじめ」としている)には芝神明宮、上りには浅草寺が設定され、増上寺、山王権現、富岡八幡宮、上野清水堂、蔵前八幡宮(成田山新勝寺の旅宿)、目黒不動、柳島妙見、神田明神、両国回向(えこう)院、浅草鷲(おおとり)明神、亀戸天神、佃島住吉社、湯島天満宮、三囲(みめぐり)稲荷、待乳山聖天(まつちやましょうでん)、堀之内妙法寺、不忍中島弁財天、根津権現、王子稲荷とともに、港区域では前述の芝神明宮の他に久留米藩有馬家上屋敷(現在の三田一丁目)内の水天宮、愛宕権現社(愛宕一丁目)、虎ノ門丸亀藩京極家上屋敷(現在の虎ノ門一丁目)内の金毘羅宮が描かれているのである。

図5-3-1-1 「千社参詣出世双六」
東京都立中央図書館特別文庫室所蔵


 
 これらは同時に千社参りの定番コ-スを収録したものでもある。千社参りとは、前述の初午の際に江戸で一部の町人が始めたとされる文化的活動で、当初は初午で稲荷をめぐる際に、参詣した証として自分の名前や居所をもじったもの(「題名(だいめい)」という)を直接鳥居や柱や壁などに書いていたのが、そのル-ツである。これが流行するにおよんで、多くの稲荷社をめぐる利便性から、あらかじめ題名を書いた紙片をたくさん用意しておくようになり、さらには題名も木版摺で書体やデザインを凝らしたものが登場していった。
 このような稲荷千社参りに発した千社札(せんしゃふだ)が初午にとどまらず、一年中貼られるようになるには時間がかからなかった。すなわち、一八世紀後半には貼る対象も稲荷社だけでなく、あらゆる寺社に広がり、前述のような江戸庶民の日帰りの参詣が盛んになると、日常的に様々な寺社に参詣するたびに札を貼る人々が増えていき、ついに千社札は寛政一一年(一七九九)七月に禁令が出るほどの流行をみる。
 その後、寛政二年刊行とされる『題名功徳演説(だいめいくどくえんぜつ)』(実際の刊行年はこれより二〇年程度下るものと考えられ、後世の仮託と推測される)では、札を貼るという行為を「題名納札(のうさつ)」として、古来の札所巡礼の際の納札という行為に結びつけ、行為の正当性を理論付けたものとなっており、以後千社札は納札の一種に位置付けられ、貼る行為には一定のル-ルが出来上がったのである。
 千社札を貼り歩く人々は、より多くの寺社に札を貼ることを競い自慢し合うのが大きな特徴となり、前述のように「中人以下」の庶民層を中心に展開していったのである。江戸時代の千社札を分析すると、当時活躍した人物には、職人層が多く、神田、日本橋のほか、浅草、本所、深川、芝、本郷など周縁部に分布していることが明らかとなっている。港区域についてみると、図5-3-1-2の①~⑦のように芝、芝口、西久保、赤羽(赤羽根)、青山、赤坂といった地域の人々の札が散見される。なかでも⑦の「赤円子」は赤坂のさる寺の住職だといわれ、俳諧師と思われる「曙雪亭呉笠(しょせつていごりゅう)」など、一部には文化的な素養の深い人物も含まれていたと考えられる。

図5-3-1-2 江戸時代後期の千社札(『社閣納札万拝帳』)
筆者所蔵