すなわち、元禄一四年(一七〇一)三月一四日、播磨赤穂藩主浅野内匠頭長矩(たくみのかみながのり)(一六六七~一七〇一)が江戸城御殿内の松の廊下で高家吉良上野介義央(こうけきらこうずけのすけよしひさ)(一六四一~一七〇二)に刃傷に及び、浅野は即日切腹を命じられ、赤穂藩は改易となり、浅野は菩提寺の泉岳寺に葬られた。その後翌一五年一二月一四日深夜に赤穂浪士四七名が本所(現在の東京都墨田区両国)の吉良の屋敷に討ち入り、吉良を殺害したのである。浪士たちは吉良の首を泉岳寺の亡君の墓前に供えて報告したのち、幕府に出頭し、寺坂吉右衛門を除く四六名が翌年二月四日に切腹を命じられている。泉岳寺では後に寺坂と、討入り以前に自害した萱野(かやの)三平を含めた四八人の墓所を設けている。事件の真相はともかく、彼らのこの一連の行動を「義挙」として脚色した物語が寛延元年(一七四八)八月に「仮名手本(かなでほん)忠臣蔵」として大坂竹本座で初めて上演され評判となると、江戸でも上演されるようになり、以後歌舞伎の演目として定番となっていった。
泉岳寺は、この忠臣蔵人気を背景に多くの参詣者が訪れる地となっていった。この点については、享保一七年(一七三二)刊行の『江戸砂子(えどすなご)』が同寺に浅野家の菩提寺で大石内蔵助(おおいしくらのすけ)をはじめとする浪士の石塔があることを述べるとともに、南の隅に元禄期の住職が建てた石碑があって、事件の仔細が記されているとしている。しかし、「楗(とざし)ありてみだりに人を入れず」として、一般の参詣者には非公開としていることがわかる。ところが、明和九年(安永元・一七七二)に刊行された『再校江戸砂子』には、「二月四日、三月四日、正月、七月十六日等は浪士の墓に参詣をゆるす。詣る人例年おびたゞし。英名たつときかな。」とあって、年に数回の公開日を設けるようになり、当日には多くの参詣者が訪れたことを記しているのである。これはまさしく歌舞伎による知名度の急激な上昇が公開を促し、名所となっていったことを物語っている。
小日向水道端(すいどうばた)(現在の東京都文京区小日向)の本法寺地中廓然寺(かくねんじ)の四代目住職を務めた十方庵敬順(一七六二~一八三二)は、文化九年(一八一二)三月に隠居してからは、江戸内外の各地を精力的に出かけ、記録を残している(『遊歴雑記』二編下、四編中)。彼は泉岳寺にも何度か訪れていて、それによれば、浪士たちの墓所の脇には庵室があり、そこには墓守がいて、日頃浪士たちに樒(しきみ)(仏事に用いる樹木)を供え、見学したい者には一人銭六文で見学を許し、墓所を描いた絵図を売っているという。なお、十方庵はこうした状況について、「近頃まで浪士の古墳を見る門の締り等もなかりしに、去年より瓦葺(かわらぶき)の能門をたてゝ猥(みだり)に入事を禁じ」と述べていることから、日常的に参詣者が多くなったことを受けて、文化文政期(一八〇四~一八三〇)に墓所の入口に門を設け、参詣者から見学料を徴収するようになったことがわかる。このように、泉岳寺では、墓所を当初の非公開から徐々に公開の方針を強めていき、参詣者の増大に対応するかたちで門を設けて墓守が参詣者を管理するとともに、管理費用として金銭を徴収することとしたのである。
ちなみに、尾張藩士の高力猿猴庵(こうりきえんこうあん)が天明六年(一七八六)から寛政四年(一七九二)頃までの間に参勤交代で江戸に滞在したときの草稿をもとに執筆した『江戸循覧記』には図5-3-1-3のような挿絵が描かれている。浪士たちの墓所は柵で囲まれた内にあり、大石内蔵助の墓だけが一際大きなものになっている。また隣に墓守の庵室が、柵の外に浅野長矩の墓があり、その手前に浅野長矩夫人瑤泉院(ようぜんいん)の墓と、当時から浪士たちが吉良の首を洗ったという伝承で知られていた首洗いの井戸が描かれている。また、猿猴庵は図中で「此寺より板行(はんこう)(出版)にして法名にも委(くわ)しく写てならびたる石塔の図出る」と述べて、この時点でも墓所の絵図が売られていることを指摘している。名所化は一八世紀後半にはかなり進行していたことがうかがえよう。
図5-3-1-3 泉岳寺の墓所
『江戸循覧記』三 公益財団法人東洋文庫所蔵
泉岳寺では、このような名所化に開帳が大きな効果をもたらしたことが推察される。開帳の意義などについては四節二項で取り上げるが、開帳を行う寺社の宣伝効果は大きいものがあり、通常の数倍、数十倍という集客のほか、期間中に頒布される守札や略縁起がその存在をさらに高める効果があった。記録によれば、泉岳寺では居開帳(いがいちょう)(後述)として、①寛延三年(一七五〇)夏、②安永七年(一七七八)四月一日から六〇日間、③寛政八年(一七九六)二月二八日から六〇日間、④天保四年(一八三三)〈月日不明〉、⑤天保七年二月一六日から六〇日間、⑥嘉永元年(一八四八)二月二九日から六〇日間の合計六回計画されたことがわかる。そして、いずれも釈迦八相曼荼羅(しゃかはっそうまんだら)、十一面観音、摩利支天像(まりしてんぞう)などとともに、浪士の遺品を開帳している。①などはまさに「仮名手本忠臣蔵」の評判が高まった時期であり、泉岳寺は忠臣蔵人気、浪士人気を受けて開帳を行うことによって、さらなる名所化を遂げていったといえるだろう。
なお、図5-3-1-4は⑥の開帳の時期に当て込んで出されたもので、「仮名手本忠臣蔵」の登場人物を各々八代目市川団十郎、四代目中村歌右衛門、十二代目市村羽左衛門(うざえもん)、三代目岩井粂三郎(くめざぶろう)などの役者見立にしたものである。左側には「梓元之応需 豊国画」とあって、版元の要望によって三代豊国が描いたものであることがわかるほか、右端に描かれている奉納提灯には「三谷氏」の名が見え、奉納手拭には「歌川(年玉印)」「ゑびすや」「奉納 江戸 都沢氏(商標)」とある。これは神田塗師(ぬし)町(現在の東京都千代田区鍛冶町)の金物問屋紀伊国屋長三郎が版元恵比寿屋に特注し、当時役者絵の第一人者として名高かった三代歌川豊国(初代国貞)に描かせたものである。紀伊国屋長三郎は天保期以降江戸の金物流通において主要な役割を果たして急成長するとともに、版元の恵比寿屋に出資することによって、趣味の芝居の世界を錦絵に表現させた人物である。このとき長三郎は泉岳寺の開帳で多くの参詣者が訪れることを見込んで、このような役者絵の企画を立てたものと考えられる。泉岳寺の名所化は、メディアを巻き込んだ相乗的効果の所産であったといえよう。 (滝口正哉)
図5-3-1-4 「東都高輪泉岳寺開帳群集之図」