富士講とは、富士山麓の人穴(現在の静岡県富士宮市)で四寸五分(一三・六センチメ-トル)の角材の上で千日間の修行をしたという長谷川角行(かくぎょう)(一五四一~一六四六)によって、江戸時代初期に創出された民間宗教で、祭神は木花咲耶姫命(このはなのさくやひめのみこと)としている。富士講は既成の仏教や神道とも異なる独自の教義を持ち、講集団を基盤に組織された宗教勢力で、食行身禄(じきぎょうみろく)(一六七一~一七三三)の布教活動によって江戸市中に急速に広がっていった。
食行とは「食(じき)は元なり」、身禄とは「弥勒の世」の意からきており、伊勢国一志郡(現在の三重県津市)に生まれた身禄は、江戸に出て市中で油を売り歩く棒手振(ぼてふり)として生活するかたわら、富士講行者(ぎょうじゃ)(角行から五代目あるいは六代目の弟子という)となった。そして身禄は「人は心を平らにして、正直、慈悲、堪忍、情け、不足を旨とし、各々の家職を熱心に務めるならば、末の世は神の加護により幸せを得る」と説いて廻り、富士仙元(せんげん)大菩薩の教えによって長屋に住む都市下層民の生活の改善を目指す活動を精力的に行った。
江戸で打ちこわしが起きた享保一八年(一七三三)、身禄は庶民の苦しみを救おうと、富士山七合五勺の烏帽子岩(えぼしいわ)近くの石室で断食入定(にゅうじょう)した。身禄の教えは弟子たちに受け継がれ、吉田平左衛門の山吉講、高田藤四郎の丸藤講、永田長四郎の永田講などが現われ、それぞれに枝講(支部)ができて広まっていった。その後富士講は「江戸八百八講」といわれるほどに拡大し、江戸では天保一三年(一八四二)の段階で九二種類の講紋(こうもん)(富士講の各枝講ごとに定められた紋)をもち、三〇〇以上の枝講に分かれた。港区域にも、麻布、青山、赤坂などに枝講があり、近代にかけてさらなる広がりをみせている。
富士講の組織は先達、講元、世話人、講員などから構成される。すなわち、先達は富士に七度以上登った行者で、経を読み、九字を切り(護身の呪い)、焚き上げなどの祭事を行う。講元は先達の補佐をし、財務面を司る。そして世話人は複数人からなり、講員間の連絡や、講金集めなどを行う存在だった。富士講は基本的には五年を一期として講員から月々集金し、毎年講員の五分の一を登山させるシステムをとっていた。彼ら講員は毎月一定の日を定めて夜に「月拝み」と呼ばれる集会を行った。ここでは先達と講員の話し合いがもたれ、日常生活の相談などまで先達が行ったという。こうした活動が長屋住まいの江戸庶民を中心に大きな支持を得て発展していった。
登山は山頂の仙元大菩薩を拝し、身禄の墓に参詣するのを主な目的とする。あらかじめ上吉田の特定の御師(おし)(信者のために祈祷を行い、宿泊・案内などの世話をする下級の神職)と宿泊の契約がなされていて、出発日、到着日や途中の休泊所も毎年変わらないことになっていた。江戸後期に約八〇軒あった御師は先達の認許や「行名」の授与のほか、山役銭(入山料)の徴収や神事も行った。
代表的なコ-スは、江戸-内藤新宿-(甲州街道)-八王子-高尾山-小仏峠-大月-(富士街道)-上吉田-山頂-須走口-箱根-道了権現-大山(阿夫利神社)-伊勢原-藤沢-(東海道)-品川-江戸といったものであった。
ところで、富士講の信者たちは富士塚を築造したことでも知られる。これは安永八年(一七七九)、高田の植木職藤四郎が師の身禄追慕の記念として、地元の水稲荷(みずいなり)境内に富士の築山を溶岩(黒ボク)で造ったことに由来する(高田富士)。その後富士講が発展するのにともなって各所の寺社境内にも築造され、講員によって祭祀が営まれたのである。富士塚は実際に富士山に登ることが難しい老人、子供、女性、足腰の弱い者などを主な対象に参詣者を集めた。そして富士講では六〇年に一度めぐってくる「庚申(かのえさる)」を縁年(えんねん)とし、このときは女人禁制が解かれ、万延元年(一八六〇)には特に賑わった。なお、港区域には泉岳寺の境内に高輪富士があったといわれるが、現存しないため詳細は不明である。
富士講信者の足跡は、富士山周辺に現存する奉納物や石碑などからうかがうことができる。一例として静岡県富士宮市の富士の人穴を取り上げてみたい。人穴はかつて角行が修行した場所として知られ、富士講信者にとっては重要な場所に位置付けられていた。ここに近世の年代が確認できる港区域に関係する石碑だけでも、文政一一年(一八二八)の年紀のある芝金杉(現在の芝一~二丁目)同行(富士講の枝講をいう)の岩右衛門、享和二年(一八〇二)芝田町四丁目(現在の三田三丁目)の先達橋本五兵衛、延享五年(寛延元・一七四八)の芝口三丁目(現在の新橋一丁目、東新橋一丁目)の藤田福兵衛といった個人名の他に、享和三年の年紀のある石碑には新橋同行を世話人とし、日本橋、神田の同行たちとともに、伊皿子(現在の三田四丁目、高輪一~二丁目)、白金台町(現在の白金二丁目、白金台一・三~五丁目)、芝金杉中門前(現在の芝大門二丁目)、芝浜松町(現在の浜松町一~二丁目、芝大門一~二丁目)、麻布十番の各同行名が記されている。また、享和元年六月に渋谷の吉田平左衛門が品川宿の講中とともに建てた石碑には、麻布、新橋、赤羽根(赤羽)、伊皿子の各同行中の名がみえる。吉田平左衛門家は渋谷道玄坂にあって代々富士講の講元を務めており、人穴の近世の石碑には、彼が世話人として江戸の西南部の同行たちとともに奉納したものも多いことから、港区域の富士講信者たちはこの吉田平左衛門を中核とするグル-プに包摂される傾向にあったとみることができる。
一方、大山はもともと修験者の行場で、縁起では天平勝宝四年(七五二)に東大寺の僧良弁(ろうべん)が開いたといい、雨降山(あふりさん)の山号を持つことからもわかるように、古来より雨乞いの霊山として知られていた。山の中腹に阿夫利(あふり)神社が、山頂には本社(石尊(せきそん)本宮)があり、麓には宿坊が軒を連ね、不動尊を祀る大山寺(おおやまでら)と一体化した山岳霊場だった。
江戸時代には、授福防災の神である石尊大権現として信仰を集め、関東一円に流布した。その背景には幕府による大山の再編があり、慶長一四年(一六〇九)に三箇条の掟書が出されている。これによって男坂、女坂の分岐点にあたる前不動堂を境に、山上と山下に分けられ、山上は清僧(妻帯しない僧)のみが居住することとなり(十二坊)、将軍家祈願所の古義真言宗寺院として再編成されていった。これにより、修験者などの宗教者は下山し、山麓の坂本(現在の神奈川県伊勢原市)、蓑毛(現在の神奈川県秦野市)に大山御師が形成されていくこととなる。
大山の御師は宿坊の運営と信者の取次を行い、各地に大山講を組織し、定期的に檀家廻りを行うのが主な活動で、天保期には一九七もの宿坊があった(『新編相模国風土記稿』)。庶民は大山講を結成して、大山に参詣し、江戸では六月二八日の初山、七月一四~一七日の盆山(夏山)の大山詣が盛んだった。
『東都歳事記』には、六月二六日の記事に、大山参詣に向かう者たちが大川(隅田川)で川垢離(せんごり)している様子を記載している。江戸庶民は半纏(はんてん)に鉢巻というスタイルで、梵天(ぼんてん)(幣束(へいそく)、神への捧げもの)と一丈(約三メ-トル)余の木太刀を押し立て、奉納する御神酒箱(御神酒枠)を天秤で担ぎ、大山参詣に向かうのだが、その途中に両国橋東詰で川垢離をする慣習があった。川垢離は大山詣に限らず、富士山やその他の霊山などに登る際には必ず行われたといわれる。日本橋から大山まで一八里(七〇キロメ-トル)、片道二日がかりの旅で、帰路に江ノ島や鎌倉に足を伸ばすか、あるいは富士と大山をセットで参詣することも多かったようである。特に江戸時代後期には大山と富士山のどちらか片方を参詣しないと、「片参り」とされる風潮が強くなり、江戸からは、表街道といわれる東海道を下るコ-スと、赤坂門(現在の東京都千代田区紀尾井町)を起点とする裏街道の矢倉沢往還(大山街道)を下るコ-スが主流で、往路と復路を変える場合が少なくなかった。港区域では、東海道沿いの芝、高輪のほか、赤坂、青山が大山街道沿いに位置しており、大山詣の人々が行き交っていたのである。 (滝口正哉)