斎藤月岑の見た大絵馬

266 ~ 268 / 378ページ
 絵馬は本来、祈願や神祭に神の降臨を求めて生馬を献上する習俗に由来し、これが生馬を簡略化した馬形(土馬、木馬)を献上する形式に変化し、さらに馬形を簡略化した板絵馬が登場して、奈良時代には板絵馬を神社に奉納する習俗が生まれた。その後、室町時代中期に馬以外の図が登場し、形状、図柄、仕様が多種多様となる。そして大型化した扁額(へんがく)(横長の額)形式の大絵馬と、民間信仰的要素の強い小絵馬とに二極分化していった。江戸時代には扁額形式で著名な絵師が描く大絵馬が発展し、江戸では浅草寺、神田明神など絵馬堂を設ける寺社が現われる一方、吊り掛け形式で名もない絵師や絵馬屋、絵馬師が描く四角型、屋根型(五角形)の小絵馬を奉納する文化が庶民の間で広まっていった。
 絵馬のなかでも大絵馬は、奉納者が絵師に依頼し制作した上で奉納するもので、境内堂社の内陣、外(げ)陣に掲げられたほか、江戸の寺社では、大絵馬を掲示するために絵馬堂や額堂と呼ばれる建物を設ける場合もあった。一九世紀に刊行された『江戸名所図会』などの地誌類の挿絵や錦絵を見ると、仁王門をくぐって本堂に向かって右側に描かれている浅草寺の絵馬堂のほか、神田明神、富岡八幡宮、赤坂氷川社などにその存在を確認することができる。
 多くの参詣者が見るだけに、絵馬堂はさながら美術展覧会のようであった。大絵馬は寺社を参詣する者にとって見物の楽しみを提供するものであり、他の絵師や、知的好奇心の強い人々の注目の対象となっていたわけである。なかには話題の名作も少なくなかったが、多くは風雨にさらされ、経年とともに絵が変色、剥落する運命にあった。名品が消滅していくことに危機を感じ、江戸市中の寺社の大絵馬を模写し、若干の解説を付して一書にまとめたのが、神田雉子(きじ)町に住む町名主斎藤月岑(げっしん)(一八〇四~一八七八)である。彼は町名主の公務の合間に精力的に寺社をめぐり、自らの眼で選んだ大絵馬を幕末に『武江絵馬鑑(ぶこうえまかがみ)』(『江戸絵馬鑑』)にまとめている。
 同書には港区域の事例として、①「赤羽水天宮」、②「京極殿金毘羅権現社手水屋」、③「愛宕社額堂」、④「白金樹木谷覚林寺清正公社(かくりんじせいしょうこうしゃ)」、⑤「芝増上寺境内芙蓉洲弁財天祠(ふようずべんざいてんし)」の五か所が紹介されている。これらすべてに絵馬堂があったと断定はできないが、参詣者の目につくところに掲示されていたのだろう。
 このうち、興味深いのは、③愛宕権現社である。同所の絵馬堂は明和四年(一七六七)六月に寺社奉行松平伊賀守忠順(ただより)に出願し、同年閏九月一五日に完成したものであることが明らかになっている(「寺社書上」)。月岑は、図5-3-3-1の絵馬が額堂すなわち絵馬堂に掲示されていたとして紹介している。「洛陽祇園会山鉾略図」と題したこの絵馬は、その描写された内容から、延享四年(一七四七)五月に桜田久保町(現在の西新橋一丁目)のつちや(槌屋)幸助が浮世絵師の春川秀蝶(しゅうちょう)に描かせ奉納し、当初は本堂に掲示されたものと思われる。また、安永八年(一七七九)と文化二年(一八〇五)の記載もあって、これについては月岑が「安永と文化の年号ハ彩色をあらためし年なり」と書き添えていることから、槌屋の子孫が経年によって劣化した絵馬を修復の上、再度奉納したようである。なお、同図は文政年間に模写したものであり、月岑自身が「細図にて見事にありしか、□□((空白))中の火災に罹りて今ハなし」と書き記しているので、のちに焼失したのだろう。
 

図5-3-3-1 「洛陽祇園会山鉾略図」(『武江絵馬鑑』愛宕社額堂)
国立国会図書館所蔵


 
 他について見てみると、①は久留米藩有馬家上屋敷内の水天宮を示しており、掲載された絵馬は文政~天保年間(一八一八~一八四四)の奉納で、江戸の南画家大西椿年(おおにしちんねん)(一七九二~一八五一)の作という。また②の絵馬は丸亀藩京極家上屋敷内の金毘羅宮の手水舎(ちょうずや)に掛けられていたといい、浅草寺の大絵馬「源三位頼政鵺(ぬえ)退治図」で知られる高嵩谷(こうすうこく)の門人である英一珪(はなぶさいっけい)(一七五九~一八四四)によって描かれたが、「今なし」とあるので、幕末には失われていたのだろう。
 そして、④は加藤清正を祀る日蓮宗覚林寺(白金台一丁目)の大絵馬を取り上げたもので、法橋(ほっきょう)玉山修徳(岡田玉山、一七三七~一八一二)が騎馬にまたがる清正像を描いている。賛は大田南畝(なんぽ)が書いたといわれるものだったが、「災後今ナシ」とあって、後年焼失したと考えられる。また、⑤の絵馬は芝増上寺境内の芙蓉洲弁財天に掛けられていたもので、皇居の杉戸に墨梅を描いたことで知られる荒木寛一(一八二七~一九一一)が描いた絵馬であった。