赤坂氷川社の大絵馬

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 ところで、赤坂氷川社境内にも幕末から明治期にかけては額堂があり、奉納された大絵馬が掲げられていたようだが、現在赤坂氷川社には、社宝として狩野豊久(とよひさ)(一六八九~一七六七)筆の六曲一隻の屛風四点が残されている(口絵10・11)。これらは扁額形式ではなく、あらかじめ屛風に仕立てたもので、獅子が一図、神馬が三図描かれ(口絵10・11)、昭和二九年(一九五四)一一月に東京都の重宝に指定されていた(昭和五一年に条例改定し、現在は東京都指定の有形文化財)。狩野豊久は岡本善悦豊久といい、木挽町狩野家二代目狩野常信(つねのぶ)の孫弟子にあたり、八代将軍徳川吉宗に同朋格として仕えた絵師で、将軍の意向を狩野家などの幕府御絵師に伝えて指導する重要な役割を担っていた。そうしたことから、この額絵の奉納も八代吉宗の意向によるものと考えられる。
 境内の額堂には、他に①明治一二年(一八七九)に月岡芳年(よしとし)(一八三九~一八九二)が地元「ま」組の火消たちを描いた絵馬のほか、②柴田是真(ぜしん)(一八〇七~一八九一)筆の「猩々(しょうじょう)」、③河鍋暁斎(きょうさい)(一八三一~一八八九)筆の「還城楽(けんじょうらく)」、④月岡芳年筆の「猩々の山車」、⑤歌舞伎脚本作者河竹其水(きすい)(黙阿弥、一八一六~一八九三)書の和歌「いくとせを ふれときれぬは 光ります 氷川の宮の 鈴にしらるる」、⑥黙阿弥の次女吉村島子画の「百合と薔薇の挿花図」と、これに添えられた長女吉村糸子書の短冊「夏しらぬ 利益もあつき 氷かな」、そして⑦明治一二年(一八七九)に歌舞伎役者九代目市川團十郎(一八三八~一九〇三)が書いた和歌「老せぬや 薬の名をも 菊の水 盃そろひて 友に逢そうれしき」の合計七面の絵馬額と、奉納者名を記した額の計八点が掲げられていた。これら①は港区有形文化財(絵画)、②~⑧は同有形民俗文化財に指定されており、いずれも明治初期の奉納と考えられる。なお、奉納者には、氏子である赤坂表伝馬町(現在の元赤坂一丁目)一丁目の久保田氏と赤坂田町(現在の赤坂一~三丁目)四丁目の佐藤権兵衛の名がみえ、⑤には「佐藤氏の需に応、此御社の繁栄を祝して 河竹其水」とあることから、明治初期の文化人と、氏子、神社との関係を物語る貴重なものとなっている。  (滝口正哉)