芝神明宮は、勧進相撲(かんじんずもう)が行われたことでも知られる。勧進相撲は室町時代に寺社の維持、修復、再建費用を募るための興行として行われたのがその嚆矢で、当初は京都、のちに大坂で盛んに行われたが、一八世紀以降は江戸にその中心が移っていった。近世の勧進相撲は寺社奉行所の許可を得て行われる興行で、当初は人々に喜捨(きしゃ)を求めるスタイルだった。
江戸では、貞享元年(一六八四)に深川の富岡八幡宮(東京都江東区富岡)境内で行われたのが最初だが、しだいに勧進目的から離れ、宝永年間(一七〇四~一七一一)にはすでに相撲渡世集団による営利目的の興行として行われるようになり、観客から木戸銭を集める方式になっていたようである。勧進相撲の興行日数は当初七日間だったが、元禄元年(一六八八)に八日間となり、さらに安永六年(一七七七)三月以降、興行は毎年春、冬の二回、晴天一〇日間と定められた。興行は屋外で行われるため、雨天の場合、さらに将軍や将軍世嗣の御成、興行場所となる寺社の行事などによって順延となることが多く、日程の消化には困難がつきものだった。
興行場所は、勧進相撲が相撲集団の運営に移ってからも、あくまで寺社の助成という名目のため、集客力のある寺社の境内で行われた。実際には富岡八幡宮、蔵前八幡宮(東京都台東区蔵前)、市ヶ谷八幡宮(東京都新宿区市谷八幡町)、西久保八幡宮(虎ノ門)、深川神明宮(東京都江東区森下)、芝神明宮(芝大門)、神田明神(東京都千代田区外神田)、湯島天満宮(東京都文京区湯島)、浅草寺(東京都台東区浅草)、市谷長龍寺(東京都新宿区市谷左内町、現在は東京都杉並区高円寺に移転)、茅場町薬師(東京都中央区日本橋茅場町)、麴町心法寺(東京都千代田区麴町)、回向院(東京都墨田区両国)で行われ、天保四年(一八三三)一〇月からは回向院に固定していった。港区域では芝神明宮で宝暦一〇年(一七六〇)一〇月、明和二年(一七六五)三月、同三年三月、安永九年(一七八〇)一〇月、寛政九年(一七九七)一〇月、同一〇年三月、文化二年(一八〇五)二月、文政八年(一八二五)一〇月、同一〇年三月、天保二年(一八三一)二月の計一〇回行われ、西久保八幡宮では明和七年三月、文化一二年三月、文化一三年三月の計三回行われている。
なかでも文化二年二月に行われた芝神明宮の勧進相撲では、八日目の興行日に当たる同月一六日に相撲取の水引と鳶(とび)の者とが喧嘩となり、これに相撲取の四ツ車、鳶仲間がそれぞれに加勢して大規模な喧嘩となった(『武江年表』)。この鳶たちは桜田久保町(現在の西新橋一丁目)、兼房(けんぼう)町(現在の同新橋二丁目)、二葉町(現在の新橋一丁目)、源助町(現在の東新橋一・二丁目、新橋三~四丁目)、露月(ろうげつ)町(現在の東新橋二丁目、新橋四~五丁目)、神明町(現在の浜松町一丁目、海岸一丁目)、増上寺中門前辺、浜松町(現在の浜松町一~二丁目、芝大門一~二丁目)、芝口(現在の新橋一丁目、東新橋一丁目)辺を持場とする町火消「め」組の者であり(四章一節二項参照)、町奉行所の与力、同心が出動して関係者を捕縛するなど大騒動に発展した。これは後世「め組の喧嘩」として歌舞伎や講談などで脚色されたことでも知られる。この一件などはまさに芝神明宮という盛り場が寺社の世界と町方の世界とが交差する場であることを示し、勧進相撲は時にこうした複雑な利権や対立を生み出す磁極になっていたことを物語っている。
一方、江戸時代の能は観世、金春(こんぱる)、金剛、宝生(ほうしょう)の各座と、喜多流(四座一流)が幕府の保護を受け、江戸城の儀式や公式行事などにおいてもしばしば演じられていた。さらに各座の当主が一世一代の興行として橋詰で勧進能を行うことがあった。具体的には合計八回行われ、①慶長一二年(一六〇七)に観世太夫、金春太夫が江戸城内で行ったのを嚆矢として、以後②元和七年(一六二一)に幸橋門外、③明暦二年(一六五六)に筋違橋(すじかいばし)門外、④貞享四年(一六八七)に本所、⑤寛延三年(一七五〇)に筋違橋門外、⑥文化一三年(一八一六)に幸橋門外、⑦天保二年(一八三一)に幸橋門外で観世太夫が行い、⑧弘化五年(嘉永元・一八四八)に筋違橋門外で宝生太夫が行っている。興行期間は当初四日間であったが、寛延三年(一七五〇)以降は晴天一五日と定められた。興行場所は当初は江戸城内に設けられたようだが、やがて幸橋門外か筋違橋門外にほぼ定着している。これは、橋詰に設定された火除地が広い興行スペ-スを必要とする勧進能に適していたからだろう。ことに幸橋門外は、「久保町原」(現在の新橋一丁目)と称される広場になっており、二葉町、芝口一丁目など繁華な町人地に隣接していることが集客に効果的だった。
ところで、寄席は近世後期の町方において、庶民を主な対象とした文化発信の重要な拠点となっていた。寄席の実態については、式亭三馬の『落話中興来由(おとしばなしちゅうこうらいゆ)』(文化一二年刊)の序文に「浄瑠璃、小唄、軍書読み、手妻(手品)、八人芸(一人で八人の声色や鳴り物を演ずる芸)、説経、祭文(さいもん)(その時々の風俗をつづった文句を三味線などの伴奏で歌う芸)、物まね尽しなどを業とする者を宅に請じて席の料を定め看客(かんかく)聴衆を集る家あり、此講席、新道、小路に数多ありて、俗に寄セ場或はヨセと略しても云ふ」と端的に紹介されている。これによれば、江戸の寄席は席料、木戸銭を定めて諸芸を披露するもので、表通りというよりも、町なかの横丁などに多かったことがわかる。当初興行場所は茶屋の二階などを借りて夜間だけ行うのが一般的だったが、文化期(一八〇四~一八一八)に定席(じょうせき)という専門の場所ができた。建物の構造は『守貞謾稿(もりさだまんこう)』によれば、「江戸の寄(よせ)は履(はきもの)をぬぐ料の間、入口内にあるのみ。その他は床なり。また市中にあるものは二階屋にても下にてこれを行ふもあり。あるひは下を住居専らとし、二階を寄の場に造りたるも多し」とある。入口が狭く、町家の一部、ことに二階を寄席にすることも多かった。また、寛政~天保期(一七八九~一八四四)の世態の推移を書きとどめた『寛天見聞記』によれば、「芝居休の頃の二町まちの茶屋の二階又は広き明き店など、五六日づゝ借受て咄す事也し」とある。「二町まち」とは天保の改革以前まで堺町、葺屋町にあった芝居町のことをいい、中村座、市村座、森田座のいわゆる「江戸三座」とそれに付属する芝居茶屋などがあった。この芝居茶屋の二階や、町なかの大きい空き家を五~六日ほど借りて興行していたというのである。
明治・大正期に紡績業で活躍した実業家鹿島萬兵衛(一八四九~一九二八)は、『江戸の夕栄(ゆうばえ)』で江戸の寄席について、代表的な場所を紹介している。それによれば、町方の寄席には京橋常盤町(現在の東京都中央区京橋)「左の松」、日本橋瀬戸物町(現在の東京都中央区日本橋室町、日本橋本町)「い世本」、神田龍閑橋(現在の東京都千代田区内神田)「りう閑」、外神田藁店(わらだな)(現在の東京都千代田区外神田)「藤本」、日本橋万(よろず)町(現在の東京都中央区日本橋)「一力亭」、日本橋木原店(現在の東京都中央区日本橋)「木原亭」、江戸橋四日市町(現在の東京都中央区日本橋)「土手蔵」、茅場町(現在の中央区日本橋茅場町)「宮ま津」、今川橋(現在の東京都中央区日本橋室町)「山のゑ」、四谷忍原(おしはら)横町(現在の東京都新宿区四谷、須賀町、左門町)「おし原」、音羽(現在の東京都文京区音羽、小日向、目白台)「目白亭」、下谷金杉(現在の東京都台東区下谷、入谷、竜泉、三ノ輪、根岸)「竹の内」、霊岸島(現在の東京都中央区新川)「川はた」、数寄屋河岸(現在の東京都中央区銀座)「山本」、下谷広小路(現在の東京都台東区上野)「三橋亭」、三田春日(現在の三田)「春日亭」、本郷四丁目「あらき」、浅草広小路(現在の東京都台東区浅草、雷門)「ひろ本」、浅草南馬道(現在の東京都台東区浅草)「西の宮」、下谷池端(現在の東京都台東区池之端)「吹抜」、大伝馬町赤岩横町「清川」、尾張町(現在の東京都中央区銀座)「石川」、麴町四丁目「万長」、赤坂一ツ木町(現在の赤坂四~五丁目)「一ッ木亭」、芝土器(かわらけ)町(現在の麻布台二丁目、東麻布一~二丁目)「万寿亭」、芝神明宮前(現在の芝大門一丁目)「松本」、深川三角(さんかく)屋敷(現在の東京都江東区深川)「古山亭」が挙げられている。また、軍書講談を行う軍談定席は、浅草門裏(門内)「太平記場」、新両替町一丁目横町(現在の東京都中央区銀座一丁目)「喜代竹」、矢大臣門(やだいじんもん)内経堂弁天山(浅草寺境内)「定席」、京橋大根河岸(だいこんがし)(現在の東京都中央区京橋)「都川」、下谷広小路(現在の東京都台東区上野二・四丁目)「本牧亭」、下谷池端「松山亭」、今川橋「染川」、神田小柳町(現在の東京都千代田区神田須田町)「小柳亭」、芳町(現在の東京都中央区日本橋人形町一・三丁目)「中川」、江戸橋元四日市町(現在の東京都中央区日本橋一丁目)「定席」、中橋広小路(現在の東京都中央区日本橋三丁目・京橋一丁目)「松川」が著名だったようで、これらのなかには港区域のものも多いことがわかる。
これらの寄席は、江戸橋四日市町、下谷広小路、浅草広小路、芝神明宮前といった江戸の盛り場の他に、神田、日本橋、京橋は山王祭・神田祭の氏子域が広がる地域であり、赤坂一ツ木町は赤坂氷川社の氏子町であることからも、祭礼を支える人々が寄席という室内文芸の場を交差していたことがうかがえよう。なお、町方では三田実相寺門前家主勘助経営の寄席が延享二年(一七四五)開業で、天保改革の際には最古とされていた。
天保一三年(一八四二)二月一二日、町奉行遠山景元(かげもと)は、老中水野忠邦による江戸市中の取り締まり強化の方針にともない、近年寄席が激増し、違法な女義太夫(若い女性が義太夫節の弾き語りをすることをいう)などが上演されていることが、江戸の風紀を乱しているとして、寄席を規制する方針を打ち出した。今後町方では古くからある一五の寄席のみ営業すること、演目は神道講釈、心学、軍書講談、昔話の四種に限定すること、茶汲み女など寄席への女性の出入りの禁止、三味線、笛、太鼓など音曲を交えた演出の禁止といった条目が定められ、同日中に江戸市中全体に伝えられた。その後、一五の寄席は店先に公認の看板を掲げ営業を始めたが、それ以外は営業停止となった。このなかには前述の三田実相寺門前の他に、天保初年開業の二葉町伊兵衛店の幸次郎経営の寄席が含まれている。
このときには、他に寺社境内の寄席が九軒許可されているが、港区域のものとして、境内寄席では最古の延享四年(一七四七)開業の芝神明宮境内のほか、寛延元年(一七四八)開業の三田神宮寺境内、宝暦六年(一七五六)開業の増上寺幸稲荷社境内の合計三軒が含まれ、このとき惜しくも不許可になったものに寛政年間(一七八九~一八〇一)開業の西久保八幡宮境内や、開業年不明の愛宕権現社内の金剛院境内の寄席があったことがわかる(「天保撰要類集(てんぽうせんようるいしゅう)」)。 (滝口正哉)