5-3 コラム 滞在者がみた江戸

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 港区域には多くの大名・武家屋敷や人々の信仰を集める寺社が集まっていたが、それは同時に、出府した全国各地の人々を港区域に誘う要因ともなった。このような人々は港区域を包摂する江戸の地において滞在中どのようなことを目にし、また経験したのであろうか。越後国新発田(しばた)藩領(現在の新潟県新発田市)において新津組(現在の新潟県新潟市)大庄屋を務めた桂家に残された「江戸詰日記」(以下、日記)から見ていこう。
 文政三年(一八二〇)一二月二五日、桂家当主の桂政右衛門は用向のため藩より出府を命じられ、江戸へと向かうこととなった。出府の支度が済み江戸へと出立したのはその四日後、一二月二九日のことである。越後街道を通り会津へ、会津から白河街道を通り白河(現在の福島県白河市)へ、白河から奥州街道を通り江戸へと向かい、氏家(現在の栃木県さくら市)や小金井(現在の栃木県下野市)、幸手(現在の埼玉県幸手市)などを経て千住宿(現在の東京都足立区千住、千住仲町、千住橋戸町、荒川区南千住)へと到着したのは出立から一五日後の翌四年一月一三日であった。同日のうちに桂は馬喰町三丁目(現在の東京都中央区日本橋馬喰町)に泊り、大名小路(現在の新橋二丁目)の新発田藩上屋敷(幸橋外)へ到着した旨を報告した。以降、越後へ帰参する七月二二日までのおよそ六か月の間、桂は江戸に滞在することとなる。日記には、この出立から帰参までの間の出来事が日別に記されている。
 桂の江戸滞在の目的は藩の公用であったが、日記には公用のための出来事のみならず、遭遇した火災や参詣した寺社など、滞在中に見聞きした様々な出来事が記載されている。港区域に関わる事例をいくつかピックアップして紹介しよう。
 
 滞在初月の一月は、火事に関する記述が複数見られる。そのうち一月一七日の酉の刻(午後五時~午後七時ごろ)に発生した火事は、「御上屋敷近所」において出火したこともあり、桂は江戸へ同行した者たちと新発田藩上屋敷へ駆けつけることとなった。日記によれば、「宇田川町近江屋より出火」し、「芝口二町目を五町程焼失」、丑の刻(午前一時~午前三時ごろ)に収まったという。この日の火事については『東京市史稿 変災篇』にいくつかの記録が収録されている。日記とこれらの記録、そして江戸切絵図からみると、火事の範囲はおおよそ図5-3-コラム-1のようになる。
 

図5-3-コラム-1 火事の延焼範囲
「芝口南西久保愛宕下之図」(芝愛宕下絵図、部分)
国立国会図書館デジタルコレクションから転載 一部加筆


 
 火事は現在の新橋六丁目、芝大門一丁目付近にあたる宇田川町付近で発生し、北に向かい延焼していった。図5-3-コラム-1を見ると、火事が収束した際には新発田藩上屋敷付近まで火が迫っていたことが確認できる。日記に出火地、延焼地、時刻等が詳細に記されていることからも、この芝の火事は桂にとって江戸滞在中に遭遇した大きな事件の一つであったのだろう。
 次に寺社、名所巡りについてみていこう。二月一〇日の条には「京極様御屋敷金毘羅宮ヘ参詣」とあり、「京極様御屋敷金毘羅宮」に訪れていることがわかる(図5-3-コラム-2)。ここでいう京極様とは讃岐丸亀藩京極家を指しており、金毘羅宮はその江戸屋敷の邸内社であった(なお、金毘羅宮の銅鳥居については三章五節四項において建築史的検討が加えられている)。金毘羅宮が公開されるようになったのは享保年間(一七一六~一七三六)の末期とされ、以降、限られた日(毎月一〇日)に一般に開かれたとされる(岩淵 二〇〇三)。これまでの研究でも、出府した人々が金毘羅宮に参詣していたことが明らかになっているが(鈴木 一九九五)、この桂の日記からも、江戸の人々だけでなく、越後などの遠国から江戸を訪れた者もまた、金毘羅宮を詣でていたことがうかがえよう。二代目歌川広重の手による江戸名勝図会「虎の門」には、その説明に「月毎(つきごと)の十日にハ縁日と称(しょうし)て出商人の見勢(みせ)多く、参詣の老若男女、門内押合ひ群衆をなす」(振り仮名、句読点は筆者による)と記されており、その賑わいぶりがうかがえる。
 

図5-3-コラム-2 「虎の門」
『江戸名勝図会』 国立国会図書館デジタルコレクションから転載


 
 三月四日には洲崎弁天(洲崎弁財天社 東京都江東区木場)へ「汐干(しおひ)見物」に行き、その後に深川八幡(富岡八幡宮 東京都江東区富岡)を参詣、両国を見物して帰宿している。また同日、同宿の「木村氏」が同じように、品川へ舟にて「汐干見物」に出かけたとの記載も見える。洲崎弁天や品川での「汐干見物」とはどのようなものであったのか。この日記から一七年後の天保九年に刊行された、江戸の町名主である斎藤月岑(げっしん)が著した『東都歳事記』から少し紹介しよう。同書の三月三日の項には、「女子雛遊び」、すなわち雛祭りとともに「汐干」が記されている。汐干は「当月(筆者註:三月)より四月に至る」まで行われ、「其内三月三日を節(ほどよし)とす」という。既に五章二節一項でも港区域の年中行事として紹介したが、『東都歳事記』には日記に見えた深川洲崎(現在の東京都江東区東陽)、品川沖のほか、佃島沖、中川の沖と並んで港区域にあたる芝浦や高輪が汐干の地として記されており、現在の江東区、中央区、港区、品川区域のうち当時海浜部であった地域の各所がその名所であったことをうかがわせる。「汐干」は今でいう干潮(ひしお)のことだが、干潮の間に人々が潮干狩りを行っている姿は他にも多くの錦絵や名所記に描かれている。例を挙げると、「東都歳事記」や図5-3-コラム-3の「江戸名所図会」のほかにも、錦絵では「東都三十六景 洲さき汐干狩」や「江戸名所 品川沖汐干狩之図」が存在する。
 

図5-3-コラム-3 「品川汐干」
『江戸名所図会』七-四 国立国会図書館デジタルコレクションから転載


 
 桂らが干潮そのものを見に行ったのか、人々が潮干狩りを楽しむ姿を見に行ったのかはわからないが、この「汐干」が「雛遊び」とならび三月の江戸の名物であり、見物の対象であったことが日記から読み取れる。
 ここまで見たように、江戸のうち現在の港区域の地域には大名・武家屋敷や寺社、さらに名所が集中し、これらの場所に多くの江戸以外の人々、すなわち江戸滞在者が訪れていた。生国と違う江戸の姿は、彼らの目にはどのように映ったのだろうか。想像が尽きない。  (五十嵐和也)