江戸の勧化

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 勧化(かんげ)とは、僧が仏寺や仏像を造営するために信者に寄付を勧めて集めることで、勧進(かんじん)ともいう。中世には寺社の再建、修復費用を募るために盛んに行われたが、近世では幕府の寺社に対する重要な助成策として位置付いていた。
 一八世紀になると、幕府も財政難から寺社への直接的な助成が困難になってきていた。幕府はそれまで有力寺社や徳川家と由緒の深い寺社に対し、直接資金援助を行う拝領金や、低利融資の拝借金を許可してきたが、それに代わる自助努力を求めるようになる。そこで、幕府の許認可という「管理」と「恩恵」のもとに自助努力を求める手法として登場したのが、開帳、勧化、御免富(ごめんとみ)などの興行である。
 一八世紀初頭以降、町名主の支配町を単位として、その周知から集金に至る流れがシステム化されていき、老中の許可状をもとに、特定の国内を数年間勧化することを許可された御免勧化の場合は、年番名主ごとに町年寄を経て町奉行所に納められていた。そして幕末期には町をその規模に応じて大、中、小とランク分けし、それまで「志次第」としていた町ごとの集金高を固定化させる傾向が顕著になっていった。
 このことは御免勧化が後述の御免富のように集金高の試算が可能となったことを意味し、天保一三年(一八四二)に御免富(後述)が廃止され、幕府による助成策の選択肢が狭められたなかでは、貴重な手法として位置付けられていた。しかし、その実態は、町単位では少額であるばかりでなく、集金のためには旅費など付随費用がかかり、少なくとも江戸の町方での集金はそれほど効率のよいものではなかった。また、請負人の存在が指摘されているように、一部の御免勧化では御免富に類似した請負構造(後述)が存在していたと考えられるのである。こうして助成システムが形骸化された御免勧化は、末端の町の構成員に義務的な負担となって現れた。多くは分割で支払うほどに彼らを疲弊させていったのである。
 一方、相対勧化(あいたいかんげ)には寺社奉行所が許可状を発行する助成策として明和三年(一七六六)以降行われたものと、氏子町、門前町、檀家、講組織などを中心に私的に行われるものとがあった。前者は九〇日と短い期間江戸市中を巡行するもので、老中の許可状が発行されず、御免勧化のような強制力がないため、寺社にとってはあまり効率のよい集金方法ではなかった。また、相対勧化は祭礼や法会などで通常に関わる者を主な対象としていることを考えれば、二重の負担を強いることになったわけである。
 このように、勧化を江戸市中との関係性のなかで捉えるならば、一八世紀後半以降、江戸市中には様々な種類の勧化が入り混じっており、町方を経済的に疲弊させていった点が指摘できよう。それとともに、勧化で巡る者たちが町方に一時的な旅宿を構え、市中を巡行する実態は、修験者、願人、行人、虚無僧など宗教者の把握に手を焼いていた町奉行所の取り締まりの観点からも、危惧する要素を孕(はら)んでいたことがわかる。そして、何よりも寺社側にとっても大きな助成効果を生まないことが多く、御免富における影富(かげとみ)(後述)や、開帳における奉納物、見世物などのように、町人社会において際立った文化を生み出すこともなかったのである。