愛宕本地堂の経営

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 近世の愛宕権現社は別当の円福寺が経営を主導していたが、境内の本地堂の別当は円福寺の子院金剛院が担っていた。明治大学博物館所蔵内藤家文書の内には、この金剛院が天保八年(一八三七)一〇月に寺社奉行所に宛てた願書があって、御免富の興行を願う内容となっている(「乍恐以書付奉願上候」)。そこには、それまでの幕府による助成の推移が述べられている。
 それによれば、愛宕権現社では幕府の祈願所として毎月朔日(ついたち)に江戸城内火伏祈禱(ひぶせきとう)の札と開運の札を献上し、正・五・九月には巻数や供物の献上を行ってきた。これに対し幕府からは、祈禱料として毎年一二月に金三両を拝領してきたほか、本地堂や祈禱道具などの修復も幕府によってなされてきたのだという。ところが、幕府は一八世紀中頃には愛宕権現社に対して助成策の転換を行っていく。本地堂については天明八年(一七八八)に武蔵、上総の二か国と御府内の武家方、寺社、町方の御免勧化が許可されている。実際に江戸の町には、翌寛政元年(一七八九)二~一二月に「本地堂、御祈祷道具其外大破修復」の名目で御免勧化が行われる旨の町触が出されている(『江戸町触集成』八-九四〇三)。さらに文政三年(一八二〇)三月二九日に寺社奉行水野忠邦の許可を得て、同年から同五年まで武蔵一国と御府内の武家方、寺社、町方の御免勧化を行ったとしている。町触では同三年七月から同五年六月に御免勧化を行う旨が申し渡されている(『江戸町触集成』一二-一一九一四)。
 しかし、これでは予定していたほどの資金が集まらなかったようで、「右助成薄ニ而無拠(てよんどころなく)本山金其外他借仕候」と述べて、本山などからの借財が嵩(かさ)む状況となってしまったのである。それに加えて本地堂は愛宕山の崖下にあって、生い茂る木々で日陰になるため、屋根が湿気で朽ちやすく、文政七年閏八月と翌年八月の大風雨で本地堂や土蔵が大破し、祈禱道具も使用に耐えないほどになってしまったという。そこで本地堂は同一一年四月に寺社奉行太田資始(すけもと)に願書を提出し、なんとか御免富の興行許可を取り付け、文政一三年四月から三年間、正・四・七・一〇月の興行を行うこととなった(『江戸町触集成』一二-一二四七六)。しかし、金剛院は「興行仕法不宜(よろしからざる)故歟(か)助成金薄御座候ニ付」として、興行は不振に終わったことを述べるとともに、修復費用の不足を補うため、再度御免富を出願するのであった。なお、このときは最高賞金額を一〇〇両とし、一〇年間毎月興行を願うというものだったが、許可された形跡はない。おそらくこのときは、天保四年(一八三三)五月から三年間、二・五・八・一一月に愛宕権現社別当の円福寺が本地堂で御免富を行っており(『江戸町触集成』一二-一二七二四)、愛宕権現社全体としてみた場合、興行が続いていることと、後述のように、御免富が飽和状態となり、助成策として破綻の色を強めていった時期でもあることから、見送られたものと考えられる。
 その後、金剛院は天保一二年二月から同一三年九月にかけて、武蔵、下総の二か国と、御府内での御免勧化を許可されており(『江戸町触集成』一三-一三三一一)、御免富の代替案として助成を受けている。