芝神明宮の経営

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 芝神明宮は、慶長五年(一六〇〇)頃はまだ小さい祠と、その前に茅葺(かやぶき)の拝殿がある程度だったという(『慶長見聞集』)。その後、元和七年(一六二一)に越前福井藩主松平忠直の母清凉院が本社の修復を、寛永八年(一六三一)には鳥取藩主池田長常が社殿の上葺の寄進をしたという。社殿は幕府によって寛永一一年に造営され、このときに鳥居、神楽所、護摩堂、末社などの境内が整備された。なお、当時は天照大神を祀る社殿を本社とし、その後方に別殿として豊受大神(とようけのおおみかみ)を祀る社殿を内宮と称していた。しかし、明暦三年(一六五七)の大火によって灰燼(かいじん)に帰し、幕府から二〇〇〇両の造営料を拝領して寛文元年(一六六一)八月に再建されている。
 
 その後、寛文九年(一六六九)以降たびたび修復などを繰り返している(表5-4-1-1)が、寛延三年(一七五〇)にそれまで天照大神と豊受大神とが別々にあった神殿を一社とする造営をしている。この頃になると、財政難となった幕府の手厚い支援は受けられなくなっており、すでに享保一六年(一七三一)に寺社奉行所に提出した社殿修復の願書は却下されている。そして、延享三年(一七四六)にようやく幕府から二〇〇両の寄進を受けるとともに、同年七月に武蔵国一国の勧化を許可されて、これらを資金として造営することができたのだが、その際に経済的な状況を考慮した別当の金剛院が神主西東氏の意見を退けて両社を合併することとなったのである。
 

表5-4-1-1 近世における芝神明宮の再建・修復
『芝大神宮誌』、『武江年表』をもとに作成


 
 ところが、同社は宝暦一二年(一七六二)二月一六日に類焼してしまった。このときは、幕府から白銀二〇〇枚の寄進と、御免富興行を許可されたものの、自力による再建を余儀なくされ、資金が調(ととの)いようやく再建されたのは安永九年(一七八〇)一一月のことであった。しかし、これも文化三年(一八〇六)三月四日のいわゆる牛町火事(一章三節一項参照)で類焼してしまう。幕府からは再び白銀二〇〇枚の寄進を受け、御免富の興行を行うが、なかなか資金が集まらなかったものとみえ、文政一〇年(一八二七)の段階ではまだ仮殿だった。しかしながら天保五年(一八三四)刊行の『江戸名所図会』の挿絵(図5-3-4-1)には、本社、拝殿他諸末社が描かれており、この間に再建されたと考えられる。その後、嘉永三年(一八五〇)二月五日に麴町五丁目から出火した大火で類焼し、このときも幕府から白銀二〇〇枚を寄進されているが、再建に至らぬまま、安政二年(一八五五)一〇月二日の大地震で再度類焼し、元治元年(一八六四)正月に本社その他が再建されている。なお、『武江年表』には慶応二年(一八六六)四月一日に浜松町一丁目から出火した大火により、鳥居の笠木(鳥居の一番上部の横材)が焼け落ちて怪我人が出たことが記されている。
 このように、芝神明宮は当初幕府の庇護によって造営や修復が繰り返し行われていたが、享保期以降は他の有力寺社同様に幕府から一定の助成を受けるものの、再建、修復のための資金集めを自力で行わなければならない状況となり、勧化や開帳、御免富の成果に依存する傾向を強めていった。では、続けてこれらの助成活動について、各項で述べていきたい。  (滝口正哉)