芝神明宮の開帳

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表5-4-2-1 近世芝神明宮の開帳
「開帳差免帳」、『武江年表』をもとに作成


 
 芝神明宮では、表5-4-2-1のように記録から確認できるだけでも居開帳六回、出開帳の受け入れ五回が知られ、一九世紀に集中しているのが特徴である。まず居開帳ではいずれも末社の天神や弁財天、稲荷が対象であり、最も多い天神の場合には、菅原道真の正筆といわれる天神を描いた掛軸が出された。『武江年表』には天保一一年(一八四〇)のときは「四月朔日より、芝神明宮内にて、天満宮御筆の像開帳(此の時境内へ、京より来りし壬生(みぶ)狂言を見せ物とす。後浅草寺境内へも出る。)」と記され、嘉永四年(一八五一)二月のときは「同二十五日より三十日の間、芝神明宮内天満宮開帳(小泉氏)」と記載されている。境内ではかねてより宮地芝居がなされていたようだが(「寺社書上」)、参詣客を当て込んだ壬生狂言が行われるなど、盛り場としての機能がふんだんに果たされていたことがわかる。なお、天神の掛軸は社家の小泉氏の所蔵するものだったようだ。
 この掛軸については、「寺社書上」に詳細に述べられている。それによれば、着座の天神画像で、縦一尺七寸五分(約五三センチメ-トル)×横九寸五分(約二八・八センチメ-トル)の本紙に描かれていて、諸人参拝のため寛政六年(一七九四)九月一日から三〇日間、文化九年(一八一二)八月二五日から三〇日間の公開を寺社奉行所から許可されている。同社には他にも家康の東照宮画像の掛軸や、四代将軍徳川家綱の和歌、五代将軍徳川綱吉が幼少時に「梅に鶯」の絵を認めた掛軸などが所蔵されていたが、とりわけ天神画像の開帳が重視されていたことが推察される。
 また、境内・門前が盛り場ゆえにその集客力が期待されて出開帳も度々行われており、芝神明宮でも受入に際して宗派にこだわらない姿勢であった。