青山善光寺ではたびたび開帳を行っており、記録から確認できるだけでも居開帳八回、出開帳一回、出開帳受け入れ五回の計一四回が知られている(表5-4-2-2)。そもそも江戸では善光寺の阿弥陀如来の人気は高く、信濃善光寺の出開帳が回向院や浅草寺でたびたび行われているほか、甲斐善光寺の出開帳や、川口善光寺の居開帳に足を延ばす人々も少なくなかったようである。ことに青山善光寺は大本願の尼上人が江戸で滞在する場所であり、大本願が開帳・閉帳(へいちょう)に立ち会っている。
表5-4-2-2 近世青山善光寺の開帳
「開帳差免帳」、『武江年表』、『信州大本願江戸青山善光寺智観上人』をもとに作成
同寺の開帳は記録によってその概要を知ることができる(鷹司編 一九七六)。それによれば、宝暦五年(一七五五)の開帳は本堂の修復と仁王門の建て替えが目的だったが、それなりの成果を収め、次の宝暦一一年の開帳でも四〇四両余の賽銭が集まるほどの成功を収めた。しかし、仁王門完成を記念して行われた明和四年(一七六七)の開帳ではわずかな黒字に過ぎず、天明三年(一七八三)の場合は一八両余の赤字になってしまった。この天明三年の開帳にあたっては、当時の智観(ちかん)上人が事前に江戸城本丸表使衆に送った書状において、「辺土な地」ゆえに参詣者が少ないだろうから、本所辺りに場所を求めたい旨を述べている。このときは実現しなかったが、そののち信濃善光寺が借用することの多い回向院で文化二年(一八〇五)に出開帳を実現させているのである。なお、この天明三年の開帳では、青山久保町家主権三郎が期間中境内の水茶屋(床見世)の出店を請け負い、間口二間×奥行二五間(三・六メ-トル×四五メ-トル)の水茶屋一か所、同様に二間×一二間(三・六メ-トル×二一・六メ-トル)一か所、九尺×一〇間(二・七メ-トル×一八メ-トル)三か所を設けたが、同寺では以後の開帳もこのような床見世の請負人と契約し、地代収入を得ていたものと考えられる。
また、大坂阿弥陀池和光寺(大阪府大阪市)は、三回にわたって青山善光寺を出開帳先に選んでいるが、これは善光寺の縁起に関係している。すなわち、和光寺は境内の阿弥陀池に厄落としとして捨てられていた阿弥陀如来像(のちに信濃善光寺の本尊となる)を本多善光が引き上げたゆかりの地であり、元禄一一年(一六九八)に堀江新地の開発の際に信濃善光寺の智善上人がここを霊地として新たに寺院を建立したという経緯があった。
なお、青山善光寺は大奥の女中たちから篤い信仰を受けていたようで、幕などの奉納物が毎回もたらされたほか、宝暦一一年以降は開帳期間が終わると登城して開帳仏を見せるのが恒例となっていた。これは、元禄一四年に信濃善光寺が閉帳後に阿弥陀如来を江戸城内に運んだのが前例となっていたようである。 (滝口正哉)