赤坂氷川社では、御免富の最盛期に二度興行されていることが確認できる。まず一度目は、文政七年(一八二四)閏八月~同一二年七月まで五年間毎月興行を許可されたもので、「御社、護摩堂、弁天堂其外大破修復」のため同社境内で行った(『江戸町触集成』一二-一二二七三)。このときは全六〇回の興行が行われたため、かなりの資金を集めることができたのではないかと思われる。
その後、天保六年(一八三五)一〇月~同九年七月まで三年間にわたって毎年正・四・七・一〇月の年四度の興行を許可されている(『江戸町触集成』一三-一二九五八)。この時は「氷川社、旅所再建」のため、御旅所内弁天堂で行うとしていた。御旅所は享保以前の元地であり、周辺を氏子町に囲まれた一ツ木町の一角にあったため、集客には効果的だったのだろう。しかし、この年四回という興行は文政八年の幕府の規制緩和策によって生み出された手法であり、全一二回の興行に過ぎない。したがって、前回ほどの助成にならなかったものと推測されるのである。なお、赤坂氷川社の経営が幕末時点でかなり逼迫していたことを考えれば、天保度の興行が不振に終わったことがその後の経営に少なからぬ影響を与えたものと推察される(滝口編 二〇一六)。