芝神明宮の御免富

298 ~ 299 / 378ページ
 芝神明宮が最初に御免富を行ったのは、明和三年(一七六六)六月に本社諸末社造営を名目に一〇年間毎月興行を許可されて以降と考えられる(『江戸町触集成』六-七九一五)。これは御免富が幕府の助成策として本格化した時期であり、芝神明宮は当初から御免富の有力寺社だったことがうかがえよう。その後、天明八年(一七八八)一一月には、同六年一〇月から小川町三崎稲荷社(東京都千代田区三崎町)で毎月行われていた牛込穴八幡別当放生寺(ほうしょうじ)(東京都新宿区西早稲田)の興行が芝神明宮に移転し行われるようになった。しかし、間もなく寛政の改革によって中止を余儀なくされている。その後、同社は文政四年(一八二一)一〇月から七年間毎月興行を再開している。そして同一〇年段階では、仮殿のうちに二間(約六メ-トル)四方の富会所があった(「寺社書上」)。このように、芝神明宮は江戸における御免富のいわば名所であり、「江戸三富」といわれた谷中感応寺(東京都台東区谷中)、湯島天満宮(東京都文京区湯島)、目黒不動(東京都目黒区下目黒)に次ぐ定番の場所だったといえる。
 幕臣宮崎成身(しげみ)の『視聴草(みききぐさ)』には、「文政十二年の板行」と宮崎自身の書込のある「御免御富金高日限附」という摺物が収録されている。そこには文政一二年興行の御免富二〇件について、興行日、興行場所、富札の料金と発行枚数、当選規定などが簡潔に記載されている。それによれば、芝神明宮では三・六・九・一二月に興行を行い、札料金二朱で七〇〇〇枚発行し、最高賞金額は一〇〇両、全一〇〇件の各当選番号には前後賞に相当する「両袖」の配当もあるものだった。その翌年のものと思われる同様の摺物には、①奥州一宮の興行が二・五・八・一一月の各一一日、②南山科御殿(勧修寺)の興行が二・五・八・一一月の各二五日、③白山権現の興行が三・六・九・一二月の各四日の三件の興行場になっていることがわかる(図5-4-3-3)。いずれも三か年全一二回の興行で、助成としては薄いが、①は札料銀二匁五分で鶴・亀・松・竹・梅の五組各五〇〇〇枚、②は札料銀三匁二分で六玉川の六組各六〇〇〇枚、③は札料銀二匁で天・地・人の三組各八〇〇〇枚の発行というもので、最高賞金額が①が一五〇両、②は三〇〇両、③は九〇両となっていた。これら三つの興行は富札に組が設けられていたこともあり、発行枚数が多いとともに、「両袖」の他に組違い賞に相当する「合番」も設定されていて、多くの当選者をもたらす多彩な当選規定となっていた。
 

図5-4-3-3 御免富興行一覧摺物(部分)
筆者所蔵


 
 なお、安政大地震後の再建費用捻出のため、同社は幕府に御免富の興行許可を求める願書を出しているが、安政四年(一八五七)正月に却下されている。すでに全面禁止となった御免富の出願をする背景には、同社が興行場所の定番としての長年の実績があったからだということができよう。