青山善光寺の御免富

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 青山善光寺は、天明八年(一七八八)から浅草第六天神宮(現在の榊神社、東京都台東区蔵前)で毎月興行を始めている。安永九年(一七八〇)に上野東叡山寛永寺(東京都台東区上野桜木)の添翰(そえふだ)(添え状)を得て寺社奉行土岐美濃守(定経)へ出願してから、実に足かけ八年もの歳月を経てようやく興行にこぎつけたものであった(鷹司 一九七六)。善光寺の「事務綱要」によると、天明二年三月に妙法院宮の興行が終了するのを待って、その後の枠を五年間にわたって興行する許可を寺社奉行所から得ている。そして二年後の同四年三月二三日には、すでに「富の事不案内」を理由に池之端の奥井三六という者に興行の万端の世話を依頼しているのである。善光寺の史料によれば、「池之端仲町 金主 奥井三六」に金主(興行にあたって資金を提供する者)並びに万事世話方としてまず一七五両払い(この他に「浅草第六天神門前 証人 天野惣兵衛」「同所河原町 同 奥井長之助」の名が見える)、このうち二五両は世話人たち約一二人に分配されているとある。そしてその四年後の三月には、「妙法院宮の富の年限が四月二九日に終了するので、その後の枠で興行したいが適当な場所がない。そこで、浅草第六天神宮の社地で高田水稲荷(別当宝泉寺、東京都新宿区西早稲田)の興行の年限が七月二六日に終了するので、八月二六日より毎月興行したい」との願いを奥井三六らから青山善光寺役人に申し出ている。奥井三六らは興行場所の選定にも携わり、いろいろと手間取った挙句、なんとか浅草第六天神宮での興行を取り付けている。このように、当時興行にあたっては金主や世話人といった興行の世話を生業としている者が存在したのである。
 善光寺の興行はかくして天明八年(一七八八)八月から五か年毎月の興行を開始し、その後しばらくは問題なく進行している。奥井らは毎月興行のたびに納める金額を当初二七両二分としていたが、札の売れ行きが悪いときには二五両に減額している。改革下の寛政二年(一七九〇)六月、善光寺智観上人は遷化(入滅)するが、幕府から格別の配慮をもって一二月までは毎月興行することが認められている。しかし折からの改革の影響で翌年より興行が正・五・九月の年三回のみとなった。そして同四年四月より本堂の改修に着工することとなったが、その矢先に「重札」という不正行為が発生して興行が中止に追い込まれている。審議の途中で世話人の一人である奥井利兵衛が出奔していることから、彼らはこの不正に関わっていたことが明らかである。その後、直接興行に乗り出した青山善光寺は同五年五月、許可された残り一回の興行を終えている。その結果、全三四回の興行成績は、試算値では一一七五両もの収入があった。
 この興行で注目されるのは、世話人や金主の存在である。彼らは興行の運転資金の提供や興行場所選定を含む段取り全般を請け負い、毎月の興行ごとに善光寺側に上納金として二五両から二七両二分を支払うことで興行全体を取り仕切っていたのであろう。  (滝口正哉)