手習塾

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 全国で開設年代が判明する手習塾(寺子屋)は一万一二七二校(明治一六年調査『日本教育史資料』)、江戸、東京府下でも五二一校(明治四年『東京府教育沿革』)または二九五校(『日本教育史資料』)といわれており、これらをふまえて江戸府内に規模のやや大きい寺子屋が三、四百くらいあり、規模の小さいのまで加えると八、九百の師家が存在したとも指摘されている(石川 一九二九)。
 港区域で確認できる最も古い手習塾は、表5-5-2を見ると、文化一三年に開業した三清堂である。そして、大部分が安政以降の開業となっている。このように開業時期が偏っているのは、私塾や手習塾を総体的に確認することのできる資料が、明治以降に生きている人からの届出や聞き取り等によるもので、必然的に明治に近い時期の塾・師匠に限られるためである。ただ、当時の政治、経済、社会、文化などさまざまな面から検討すると、寛政から文化文政期(一七八九~一八三〇)にかけて庶民の教育に対する理解や学習意欲が高まり、手習塾が急激に増加したという傾向は妥当といえよう。
 

表5-5-2 港区域内手習塾一覧(文部省編『日本教育史資料』より作成)


 
 港区域で有名な塾といえば、芝浜松町の坂川暘谷(ようこく)の芝泉堂(しせんどう)をあげることができる。暘谷は武家であるが、身分・性別を問わず多くの者が学ぶとともに、その手跡手本の多くは出版され全国各地で広く使用された。芝泉堂は二代で途絶えたが、門下から江戸市中に多くの手習塾が派生した。それらは、港区域の芝水堂・芝海堂・晸泉堂のほか、瑩泉(えいせん)堂、東泉堂など「芝」や「泉」の字を堂号(塾名)に表して伝統を明らかにした。特に、天保から安政(一八三〇~一八六〇)にかけて、芝泉堂より生まれ出た江戸の手習塾は多い。
 次に、四八ある手習塾のうち、武士が開業したものは一六と三分の一を占めることが表5-5-2よりわかる。ここでは、幕臣山本家が開業した歳泉堂をみてみる。
 歳泉堂を営んでいた山本家は、先祖が三河出身で、代々江戸城内の雜役や将軍の外出時に運搬、通信連絡を行う黒鍬之者(くろくわのもの)(二章四節三項参照)であり、黒鍬之者組屋敷のなかに屋敷を拝領していた。寛政二年(一七九〇)六月に御家流筆学所を開業した粂八(くめはち)より後代は、留守居与力の下で江戸城内の警備を担った御留守居同心に任じられている。後年の記録によると、文化元年(一八〇四)に嫡子房五郎が塾を継いだが、同一二年に公務繁忙を理由に廃業することになった。その後、房五郎の子であり、安政二年(一八五五)に留守居同心組頭に任じられていた遥秀(はるひで)が、翌三年に手習塾を再興し、名称を歳泉堂とした。当初は生徒が五〇人程度であったが、万延年間(一八六〇~一八六一)には二五〇人におよび、慶応年間(一八六五~一八六八)に至っては三八〇人にも上ったという。ただし、慶応末年に大名、旗本らが国許や領地へ移るようになると、生徒の退学が続き、一二〇人程度まで落ち込んだようである。このことからも、地域住民の子弟とともに、武士の子弟も多く通っていたことがうかがえる。また、武士人口の多い江戸における手習塾の成立には、貨幣経済の発達による庶民の学習要求の高まりのみでなく、職務遂行のための基礎能力という下級武士の学習要求も少なからずあったと考えられる。
 学科は「粟田口御殿御流筆道」、教授書籍は「今川、実語教、消息往来、謹慎往来、庭訓(ていきん)往来、都路(みやこじ)、手紙之類」(東京府文書「家塾明細表」 * 東京都公文書館所蔵)とあり、初歩的な読み書きと筆法を教授していたことがわかる。往来とは、本来は往復書簡のことで、それを集めて手習いの手本にしたものを指すが、一般的には初等教育の学習書の総称として用いる。都路は東海道五十三次の名所を長歌にしたものである。
 貧しい御家人は、職務の合間に内職をする者が多かった。当時、「武運つたなく 文道で 町師匠」(「誹風柳多留(はいふうやなぎたる)」一五四)という句が詠まれており、下級武士や浪人の安易な稼ぎ口と考えられていたようである。
 港区域の手習塾では、女性の存在も注目される。女性師匠は、一七塾で確認できる。当時、武士同様に「諦めて 女筆指南の 札を出し」(安永五年〈一七七六〉「川柳評方句合勝句刷(せんりゅうひょうまんくあわせかちくずり)」)という句が詠まれ、また「素人の町家、後家の方くらし能と見へて、多町々に有り、女筆指南も多し」(『飛鳥川』)といわれるように、独身女性の経済的収入源としても位置付いていた。このことは、経済的に困った武士や女性の稼ぎ口として成り立つほど、江戸市中では手習塾の需要が高かったことを示している。
 また、多くの塾で男子と同等か、匹敵するほどの女子生徒が存在していたことがわかる。後年の聞き取り調査によると、女子生徒が多いのは、「江戸のみの特異事相」であるという(乙竹 一九二九)。江戸の町家では、男子を一一~一二歳で奉公へ出すため、それ以上の在学者は武士の子か富商・医者の子に限られる。それに対して、女子は屋敷奉公に出る者が多く、それも一七~一八歳からであり、その間は手習塾に通いながら遊芸、裁縫等の稽古を行う風習があったのである。また、女子の場合は、午前中のみ手習塾に通い、午後は欠席する者が多かった。これは、裕福な家では琴、三絃等遊芸の稽古に行き、貧しい家の子は家事の手伝い、子守や内職を行うためであった。このように、女子の方が長く在籍する分、比率は高くなる。
 手習塾の学習内容は、往来物の出版・普及、学習過程を分かりやすく図示した安藤広重画「春興手習出精双六」なども出されるように、次第に統一化の方向をみせる。一般的な学習課程は、男子は、いろは、数字、仮名交り文、都路、名頭(ながしら)、苗字尽、国尽、口上文、請取送状(うけとりおくりじょう)、江戸方角、手紙の文、商売往来、消息往来、庭訓往来、千字文、唐詩選という順番で学ばれる。女子の場合は、いろは、数学、口上文、源氏、お文の文、名頭、国尽、女江戸方角、女消息往来、女庭訓往来というように、男子と同様だが、女子用の往来物が利用された。
 手習塾での学習は一年を通じて行われ、一般的には休日は毎月朔日、一五日、二五日のほか、正月、節句、盆、祭日、農繁期であった。朝八時くらいから始まり、昼休みを挟んで、午後六時頃まで学習した。
 大正期の聞き取り調査で、三田台裏町の玄盛堂で教授にあたった飯田要の証言がある(乙竹 一九二九)。玄盛堂(表5-5-2 29)は、享和三年(一八〇三)に宇都宮藩士だった直江政寿が江戸へ移って開業したのに始まり、二代早川暘陌(ようはく)(玄池堂と称していた)、三代飯田要と継承された。幕府御家人の早川暘陌が隠居して塾を継承し、玄盛堂と称したという。暘陌は先述の芝泉堂坂川暘谷(ようこく)のもとで筆道を学び、関流算術にも優れていたため、生徒の数も二〇〇名に達した。
 そして、三代目の飯田要は、父親が攘夷論の志士であり、母親は父のようにはならないよう、要が六歳の時に生涯を手習塾師匠として送ることを誓わしめたという。
 要は、松平安房守家臣の武市庄平、松平讃岐守家臣の鈴木喜藤次、芝白金で師匠をしていた浪人、歌浦直政に就いて学んだ。さらに、歌浦の紹介で玄池堂の早川暘陌のもとで学び始めるが、既に歌浦のもとに居た頃から代教を務めるなどしていたため、直ちに玄池堂を譲り受けた(東京府文書「家塾明細表」 * 東京都公文書館所蔵)。その玄池堂の邸内には、享和年間の刻のある筆塚や天神を祀る石灯籠の捨石が残されているという。
 手習塾で盛んに行われたものの一つに、席書がある。公衆の前で揮毫(きごう)し、日頃の練習の技を示したもので、成績発表会のようなものである。師匠にとってはその技量を社会に示す機会でもあった。玄盛堂では、戸外には見物の人が黒山を築き、皆が師匠の手並や生徒の技量を批評していたという。この日には、二〇〇文から一朱、富家では一両も包んだ祝儀を師匠へ納め、師匠も赤飯を供したり、知り合いの師匠を二、三人も招待して監督を頼んだりした。翌日は休日で、貼り出した成績を保護者に示し、あるいはさらに往来に貼り出して一般に示したりしたという。
 また、花見では、行った地先で生徒は遊んでいるだけで、親たちは四斗樽を開けて大騒ぎをしたりもしたと証言している。