図6-1-1 内海台場普請位置推定図
品川区立品川歴史館『解説シ-ト 品川御台場』掲載図をもとに筆者作図
幕府はその後、文久二年(一八六二)八月の薩摩藩士によるイギリス人商人殺傷事件「生麦事件」と、同国による幕府への賠償金支払い要求を受け、第四・第七台場を普請している。イギリス軍艦が品川沖に来航したためである。結果、石材の高騰により、両台場と同時並行で普請された浜御殿や佃島、越中島といった沿岸部の御台場が優先されたため未完成のまま工事を終了した(冨川 二〇一四など)。
内海台場の普請計画を現在の行政区画に当てると、品川区東品川から港区台場を経て江東区豊洲付近に至り、直線距離にして約六キロメ-トルにおよぶ。現存する二基を抱える港区にとって、内海台場は幕末の様子を語る上で必要不可欠な歴史遺産である。
ここでは、ペリ-来航時における大名屋敷の臨時警備、台場普請の経緯、普請による地域社会への影響などについて述べていく。