はじめに

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 現在、港区の臨海部が含まれる東京港内には、地名「港区台場」の由来になった二つの人工島がある。大正一五年(一九二六)一〇月二〇日に国指定史跡となった「品川台場」(第三台場・第六台場 現在の台場一丁目)である。これは、幕府がアメリカのペリ-艦隊来航後の嘉永六年(一八五三)八月末から、首都江戸の防衛のため江戸湾内海(内湾)の品川沖に普請した砲台の一部で、総称「内海(うちうみ)(ないかいと読む場合もある)御台場(おだいば)」、「品川御台場」と呼ばれたものである(本節では、内海台場に統一、図6-1-1)。幕府は、一一基の海上砲台を普請する計画で事業を開始し、後に陸続きの御台場(品川御殿山下台場、陸附四番台場)を加えて一二基計画に変更したが、翌安政元年(一八五四)一二月、五基の海上砲台(第一、第二、第三、第五、第六)と一基の海岸砲台(品川御殿山下台場)の計六基を普請した時点で工事を終了した。

図6-1-1 内海台場普請位置推定図
品川区立品川歴史館『解説シ-ト 品川御台場』掲載図をもとに筆者作図


 
 幕府はその後、文久二年(一八六二)八月の薩摩藩士によるイギリス人商人殺傷事件「生麦事件」と、同国による幕府への賠償金支払い要求を受け、第四・第七台場を普請している。イギリス軍艦が品川沖に来航したためである。結果、石材の高騰により、両台場と同時並行で普請された浜御殿や佃島、越中島といった沿岸部の御台場が優先されたため未完成のまま工事を終了した(冨川 二〇一四など)。
 内海台場の普請計画を現在の行政区画に当てると、品川区東品川から港区台場を経て江東区豊洲付近に至り、直線距離にして約六キロメ-トルにおよぶ。現存する二基を抱える港区にとって、内海台場は幕末の様子を語る上で必要不可欠な歴史遺産である。
 ここでは、ペリ-来航時における大名屋敷の臨時警備、台場普請の経緯、普請による地域社会への影響などについて述べていく。