台場は、外国船および外国人の侵入を沿岸部で阻止するための軍事施設であり、幕府の対外政策の一つである海防(海岸防備・海岸防御)において中心的な役割を担った砲台である。古くは「御石火矢台」、「石火矢台」と称し、いつしか「御台場」の名称が定着する。史料の多くは「御台場」と表現しているが、一八六〇年代後半に入り「御砲台」という名称が散見され、明治以降「砲台」に統一されたようである。
この「御」は、将軍または藩主を指す言葉である。幕府の場合は将軍、諸藩の場合は各藩主と普請主体者は異なるものの、いずれも「御」を付けるのが通例であった。そのため、明治以降の史料で「台場」という用語を用いることはあっても、近世の史料で「台場」と表記するものは少ない。
台場には、普請地の地名が冠されるが、ここで取り上げる台場にあっては地名が存在しない江戸湾内海の品川沖に築かれたため、「内海御台場」、「品川御台場」、「品川沖○番御台場」など、複数の名称が存在する。国指定史跡の名称は「品川台場」であり、現在はこの名称が定着している。ここでは煩雑さを回避するため、幕府側の史料で記載頻度が高い「内海御台場」を使い、「内海台場」で統一表記をするが、普請地を見ればいずれの名称も誤りではないのである。