長崎から江戸へ

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 台場を中核とした海防体制は、三代将軍徳川家光(一六〇四~一六五一)によって幕府直轄領(以下、幕領)の国際貿易港長崎で開始された。三代家光が、寛永一八年(一六四一)に福岡藩、翌一九年に佐賀藩の両外様大名をその警備担当に命じたのを始まりとする。その後、幕府が来航を禁じたポルトガル船が正保四年(一六四七)に長崎へ来航したことを受け、明暦元年(一六五五)、港内の七か所に台場を竣工させている(「御番方大概」、「長崎表御備向ニ付書上控」)。内海台場の普請から約二〇〇年前の出来事である。そして、長崎で長年培われた警備体制の手法は、近世後期に本格化する江戸湾、大坂湾、箱館湾といった幕領の主要海域の警備体制を中心に継承・進化させながら、大名領の沿岸部警備へも広がりを見せていく(冨川 二〇〇五など)。
 江戸湾の海防体制は、将軍の居城江戸城とその城下町江戸を守ることを目的として幕府が整備したものである。古くは、三代家光が北条氏長と福島伝兵衛に命じたことに始まるが、家光の死去によって中止になったという(『宇下人言(うげのひとごと)』)。幕府が観音崎(現在の神奈川県横須賀市)や富津(ふっつ)(現在の千葉県富津市)など数か所に台場を築いて海防体制を始動させたのは、文化七年(一八一〇)二月、将軍家に血筋が近い親藩のうち、相模国側に会津藩を、房総側に白河藩をそれぞれ配した時である(針谷 一九九一)。これは、寛政期(一七八九~一八〇一)のロシアによる蝦夷地進出を背景とする老中首座松平定信(一七五八~一八二九)の着想に基づいて具体化したものであるが、その後幕府は、外国船の日本近海への来航が多発するにつれ、「異国船打払(うちはらい)令」(来航した外国船の追放令)や「薪水(しんすい)給与令」(同じく外国船に対し、燃料と食料の支給を認める法令)を発令しながら、状況に応じて諸大名の増減を行い警備体制を変化させていった。なかでも、イギリス船フェ-トン号の長崎港来航(一八〇八)、アメリカ商船モリソン号の江戸湾来航(一八三七)、アヘン戦争(一八四〇~一八四二)での清国の敗北による東アジアの情勢変化、イギリス測量艦マリナ-号の江戸湾来航(一八四九)、アメリカビッドル艦隊の江戸湾来航(一八四六)などは、幕府や諸藩の危機意識の高揚を招いた事件として挙げることができる。そして、嘉永六年(一八五三)六月におけるアメリカのペリ-艦隊の江戸湾来航は、幕府が対外政策の方針を転換させていく大きな契機となった。幕末日本をめぐる状況は、一八世紀末から大きく変化していったのである。  (冨川武史)