内海台場の普請はペリ-来航を直接的な契機とするものであったが、その警備を担ったのは幕府の統括、指示のもとに動く諸大名であった。内海台場の普請以前は、江戸の沿岸部に設けられた下屋敷や蔵屋敷といった諸大名の江戸屋敷(藩邸)や周辺の沿岸部が江戸の最終防衛線であったが、観音崎(現在の神奈川県横須賀市)や富津(現在の千葉県富津市)など台場を築いていた地域と異なり、本格的な警備体制を敷いていたわけではなかった。内海には、天保一四年(一八四三)四月設置の羽田台場と嘉永五年(一八五二)五月設置の大森町打場があったのみという状態であり、その警備の中心は浦賀にあった(大田区史編さん委員会編 一九九二)。羽田台場は設置翌年の弘化元年(一八四四)一〇月に廃止されており、江戸の沿岸部とその周辺はほぼ無防備の状態だったのである。
ペリ-の第一次来航は、四隻の艦隊が下田沖(現在の静岡県下田市の沖合)で確認された嘉永六年六月三日のうちに江戸城に報告された(以下、『幕末外国関係文書之一』一九七二)。弘化三年(一八四六)閏五月のビッドル艦隊江戸湾来航以降、同地の常時警備担当になった会津、川越、彦根、忍の四藩や在地の勝山藩などは非常警備体制を取り、老中首座阿部正弘(一八一九~一八五七)や浦賀奉行に注進してその動向を注視した。ペリ-は久里浜(現在の神奈川県横須賀市)に上陸し、大統領フィルモアの国書を浦賀奉行に手渡し、「開国」を迫る。幕府は、江戸城の本丸・西丸の先手組に江戸市中の見廻りを命じ、江戸の寺院に対して艦隊が品川沖に来航した際の心得を通達するとともに町火消の出動についての町触を出し、諸大名に対して江戸沿岸部の警備を発令するなどその対応に追われている。
芝金杉(現在の芝浦一丁目)に下屋敷を拝領していた鳥取藩の「江戸御留守居日記」嘉永六年(一八五三)六月三日条には、「北アメリカ舩(せん)四艘浦賀表へ渡来の由」という短い一文が記されており、不十分な情報ながらも来航当日に艦隊の情報がもたらされている。六月六日、幕府は、大目付と目付に対して外国船の内海侵入の可能性を見て、芝から品川付近に屋敷を拝領している大名に対して屋敷の警備を行うよう通達した(『幕末外国関係文書之一』一九七二)。またこの日、幕府は、深川(現在の東京都江東区深川付近)に柳川藩、佃島(現在の東京都中央区佃)に徳島藩、浜御殿(現在の浜離宮恩賜庭園)に高松藩、高輪に姫路藩、御殿山(現在の東京都品川区北品川)に福井藩、大森(現在の東京都大田区大森)に長州藩、本牧(ほんもく)(現在の神奈川県横浜市)に熊本藩と、各大名の江戸屋敷以外の江戸および近郊地域の沿岸部の警備にあたるよう命じた。これは、ペリ-艦隊が小柴(現在の神奈川県横浜市)の沖合に碇泊し、付近を測量しながら徐々に江戸に近づきつつあったため、内海、品川沖に侵入する可能性を想定して対応したものであった。