大名屋敷の利用変化-鳥取藩芝金杉下屋敷の警備

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 嘉永六年(一八五三)六月五日夜に江戸屋敷への出兵命令の情報を得た鳥取藩は、同三年八月二一日に幕府に申告した外国船の近海来航時の防御人数手当てに従い芝金杉下屋敷に派兵することにした(「江戸家老日記写」「江戸御留守居日記」*)。芝金杉下屋敷は、一万七五〇〇坪余の広さのある初代藩主池田光仲(みつなか)(一六三〇~一六九三)ゆかりの屋敷であり、嘉永六年のペリ-第一次来航時において同藩の警備拠点となった場所である。
 嘉永六年六月六日、鳥取藩は芝金杉下屋敷の臨時警備に際し、江戸留守居役の岡部善右衛門と賀美隼人(かがみはやと)を隔日交替とし、番頭以下三〇一名、五門の大砲と六〇挺の銃を配備した。また、同日には南側海手に建設中の見張番所一か所が完成し、屋敷に幔幕(まんまく)を張り、昼夜兼行で警備することが決定するなど、体制が整いつつあった。六月一〇日には一二代藩主池田慶徳(よしのり)(一八三七~一八七七)の臨時出馬時の供も設定されたが、ペリ-艦隊が一二日に江戸湾を退去したため、一四日付で下屋敷の臨時警備が解除された(前掲資料)。
 嘉永六年七月一一日付で「異国船御用掛」の任に就いた鳥取藩士田村甚左衛門(じんざえもん)(貞彦)は、八月一四日の池田慶徳による芝金杉下屋敷巡見に同行し、「御庭御巡見遊ばされ、台場等の御場所御取極仰せ付けられ、稲荷社地替ならびに同所御茶屋取崩し、先畳置候様仰せ付けられ候事」と、この時慶徳が同所の台場設置場所を定め、稲荷社の移設と茶屋の解体による部材の保管を命じたことを記録している(以上、「田村篤家家譜」「田村貞彦公私備忘日記」五 * および金行 二〇〇五)。幕府が、江戸の沿岸部に屋敷を有する大名に対して警備強化のための台場普請を「勝手次第」と布達したのは九月二六日のことである(『幕末外国関係文書之二』一九七二)。したがって、それよりも一か月以上早い段階において江戸屋敷内台場の普請を藩主自らの意思で決定していたことは注目に値する。
 しかし、この芝金杉下屋敷は、同年八月二八日付で幕府から台場付属陣屋地として上地令が出され、後に会津藩が警備担当を命じられる第二台場の付属陣屋となる。この時、鳥取藩は同日付で下大崎村の松江藩下大崎下屋敷(現在の東京都品川区北品川)を代地として与えられている。この屋敷は、安政元年(一八五四)一二月二三日から同藩が警備を開始する品川御殿山下台場の付属陣屋となるが、その後、文久元年(一八六一)九月一五日、御殿山外国公使館建設計画のなかで幕府に返納するに至り、一一月二日に芝金杉下屋敷を再度拝領している(「御用部屋日記」)。図6-1-2-1は、文久二年成立とされる「芝御屋敷惣絵図」である。内海台場側の方向に当たる南東部の隅角部を軸に、南北に二〇六間、東西九〇間(約三七一メ-トル×一六二メ-トル)の長い土塁(土手)で示された台場を見ることができる(図右下、矢印の範囲)。これは結果的に、池田慶徳が原案を出した芝金杉下屋敷内台場の発展形となるものだが、鳥取藩の「江戸家老日記写」や「江戸御留守居日記」などには、台場の普請記事が見当たらない。また、 文久元年一一月の同屋敷再拝領以降、鳥取藩が築いたものと見るのもまた難しいといえる。それは、この屋敷地が嘉永六年から内海台場の付属陣屋地になったためであり、その性質から鳥取藩の再拝領まで待つことなく早い時期に台場を普請したとみるのが妥当だからである。したがって、芝金杉下屋敷の台場普請は池田慶徳の発意であったが、普請者は鳥取藩ではなく、同地を第二台場の付属陣屋として使用した会津藩や姫路藩などの可能性が高い。鳥取藩にとって池田光仲ゆかりの芝金杉下屋敷を再拝領することは悲願であったが、国元の沿岸部の警備に加え、常に防御対象となっていたこの屋敷まで手が及ばないことを理由として、文久三年(一八六三)一一月四日、幕府に返納した(「大崎御屋敷由来」および鳥取県立博物館編 一九八八)。

図6-1-2-1 「芝御屋敷惣絵図」
鳥取藩政資料研究会編『鳥取藩研究の最前線』(鳥取県立博物館、2017)から一部加筆のうえ、転載


 
 こうして、元来藩主の別邸などの役割を持った下屋敷(二章一節一項参照)は、本来の役割を維持しつつも幕末の動乱期に軍事的な役割を強めていった。鳥取藩の芝金杉下屋敷や下大崎下屋敷は、その典型的な事例といえるのである。  (冨川武史)